京都ゑびす神社(恵美須神社)の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

京都ゑびす神社(恵美須神社)の歴史を時代別年表にまとめ
京都ゑびす神社(恵美須神社)の歴史を簡単にまとめています。京都ゑびす神社は1202年(建仁2年)に明菴栄西が建仁寺を創建した際、建仁寺の鎮守として創建されました。明菴栄西は源頼家から寺域を寄進され、建仁寺を創建しました。(時代別年表・重要人物下記参照)
【建仁寺(けんにんじ)】
●建仁寺は1202年(建仁2年)に鎌倉幕府2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)が寺域(境内)を寄進し、臨済宗(りんざいしゅう)の宗祖・明菴栄西(みょうあんえいさい)が宋(中国)・百丈山(ひゃくじょうざん)を模して創建しました。寺号は第83代・土御門天皇(つちみかどてんのう)の勅許により、禅寺初の年号寺「建仁寺」になりました。建仁寺は当初、真言(しんごん)・止観(しかん)の二院も構え、天台(てんだい)・密教(みっきょう)・禅(ぜん)の三宗兼学でした。なお建仁寺が建立されている場所は鎌倉幕府の六波羅探題(ろくはらたんだい)に近接する鎌倉幕府の幕府直轄領でした。
【京都ゑびす神社(恵美須神社)の起源・始まり】
●京都ゑびす神社(恵美須神社(えびすじんじゃ))は1202年(建仁2年)に明菴栄西が建仁寺を創建した際、建仁寺の鎮守として創建されました。明菴栄西は1187年(文治3年)に南宋(中国)に渡り、1191年(建久2年)に帰国した際、海上で暴風雨に見舞われたが、海上に向かって祈ったところ海上から恵美須(えびす)神が現れ、無事に帰国できたことから建仁寺の鎮守社として祀ったと言われています。恵美須神は七福神の中で唯一日本由来の神様で、父・伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と母・伊奘冉尊(いざなみのみこと)の最初の子・蛭子命(ひるこのみこと)とも、大黒様である大国主命(おおくにぬしのみこと)の子・事代主神(ことしろぬしかみ)ともされています。恵美須神は古来から海神ともされています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
●1215年(建保3年)に明菴栄西が亡くなったと言われています。その後1246年(寛元4年)・1247年(寛元5年)・1256年(建長8年)に建仁寺が火災で焼失し、荒廃したと言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
●1467年(応仁元年)に応仁の乱(おうにんのらん)が起こり、建仁寺が兵火で焼失し、その後建仁寺が再建された際に現在の場所に移ったと言われています。
●室町時代に都七福神めぐりが民間の信仰として始まり、600年の歴史があり、日本最古の七福神めぐりとも言われています。都七福神めぐりではゑびす神を祀る京都ゑびす神社、大黒天(だいこくてん)を祀る妙円寺(みょうえんじ・松ヶ崎大黒天(まつがさきだいこくてん))、毘沙門天(びしゃもんてん)を祀る東寺(とうじ)、弁財天(べんざいてん)を祀る六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)、福禄寿(ふくろくじゅ)を祀る赤山禅院(せきざんぜんいん)、寿老神(じゅろうじん)を祀る行願寺(ぎょうがんじ・革堂(かわどう))、布袋尊(ほていそん)を祀る萬福寺(まんぷくじ)を巡り、七難即滅・七福即生を祈願します。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●江戸時代中期に大阪・今宮神社から十日ゑびす大祭(初えびす)が伝わったと言われています。ゑびす信仰の象徴とも言える吉兆笹(福笹)は第18代神職・中川数馬義幸が創意し、京都ゑびす神社独自の「御札」の形態が広まったものと言われています。ゑびす神が持つ釣竿をもとに竹の葉である笹をゑびす神の象徴としたと言われています。なおえびす神は1月10日寅の刻(午前4時)に生まれたとされ、1月10日を中心に十日えびすの信仰が始まりました。
京都ゑびす神社(恵美須神社)十日ゑびす大祭
●江戸時代中期に宝恵かご社参が始まったと言われています。呉服問屋の旦那衆がひいきの芸者を連れ、商売繁盛を祈願したのが始まりと伝えられています。
●1788年(天明8年)に団栗辻子(どんぐりのずし)を火元とする天明の大火が発生したが、火元に近かったが、焼失を免れました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●明治時代に日本画家・堂本印象(どうもといんしょう)が拝殿の天井に「招福龍絵」を描きました。
●1978年(昭和53年)に名刺塚が築かれました。財布塚も築かれています。
【京都ゑびす神社(恵美須神社)を創建した明菴栄西】
明菴栄西は1141年(永治元年)に岡山・吉備津神社の賀陽貞遠の子、賀陽貞政の曽孫として備中国賀陽郡宮内村に生まれたと言われています。1151年(仁平元年)に岡山・安養寺の静心に師事し、1154年(久寿元年)に延暦寺で出家しました。天台宗の教学・密教を学び、その後自分の坊号を冠した葉上流を興しました。1168年(仁安3年)に堕落した天台宗を立て直すべく、南宋(中国)に留学し、天台山万年寺を訪れ、同年9月に「天台章疎」60巻を持って帰国しました。1187年(文治3年)に再び南宋(中国)に渡り、仏法辿流の為にインド渡航を願い出るが、許可されませんでした。その後天台山万年寺の虚庵懐敞に師事し、1189年(文治5年)に虚庵懐敞にともに天童山景徳寺に移り、1191年(建久2年)に虚庵懐敞から臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け、号・明菴を授かりました。1195年(建久6年)に博多・聖福寺を創建して日本最初の禅道場にしました。1198年(建久9年)に京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、1200年(正治2年)に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝一周忌の導師を務め、北条政子創建の寿福寺の住職に招聘されました。1202年(建仁2年)に鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護によって建仁寺を創建し、1204年(元久元年)に奈良・東大寺勧進職に就任しました。なお明菴栄西は1215年(建保3年)に亡くなりました。
【京都ゑびす神社(恵美須神社)の歴史 備考】
*参考・・・京都ゑびす神社・恵美須神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ












