三十三間堂秋の彼岸会(例年秋の彼岸の中日)

三十三間堂(Sanjusangen-do Temple)

三十三間堂秋の彼岸会

三十三間堂秋の彼岸会(日程・時間・・・)を紹介しています。秋の彼岸会は毎年秋の彼岸の中日(秋分の日)に行われています。秋の彼岸会では秋の彼岸の中日に特設壇を設け、先祖供養・読経供養を行ないます。なお彼岸は雑節のひとつです。彼岸は秋分の日とその前後3日間、合計7日間を言います。

【三十三間堂秋の彼岸会 日程時間(要確認)】
三十三間堂秋の彼岸会は毎年秋の彼岸の中日(秋分の日)に行われます。(秋分の日は毎年同じではありません。)

【三十三間堂秋の彼岸会 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市東山区三十三間堂廻町657
最寄り駅・バス停・・・博物館・三十三間堂前(徒歩すぐ)、東山七条(徒歩すぐ)

アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から三十三間堂は100系統(D1乗り場)、110系統(D1乗り場)、206系統(D2乗り場)、208系統(D2乗り場)
*四条河原町からは207系統
*四条烏丸からは207系統
*河原町丸太町からは202系統
路線・時刻表・運賃チェック

*京阪電鉄本線の場合、最寄り駅は七条駅(徒歩約5分)

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【三十三間堂秋の彼岸会 歴史・簡単概要】
三十三間堂秋の彼岸会(ひがんえ)では秋の彼岸の中日に特設壇を設け、先祖供養・読経供養を行ないます。
彼岸は雑節のひとつです。彼岸は秋分の日とその前後3日間、合計7日間を言います。7日間の初日を彼岸の入り、最後の日を彼岸明けと言います。彼岸では中日に先祖に感謝し、前後3日間は悟りの境地に到る6つの徳目・六波羅蜜を修める日とされています。なお悟りの彼岸に対し、煩悩の此岸(しがん)とも言われます。
彼岸会は秋分の日を中日とする合計7日間に行う法会です。秋分の日には太陽が真西に沈む為、阿弥陀さまのいる西方極楽を思う日ともされているそうです。ただ彼岸会はインド・中国にはなく、日本独自の風習と仏教が結びついたものとされています。ちなみに彼岸会は「日本後紀」によると806年(大同元年)に日本で初めて行われたと言われています。なお彼岸会では寺院に参詣したり、お墓に参ったり、おはぎを供えたりします。
●三十三間堂の歴史(創建から現在)を紹介しています。
三十三間堂歴史(後白河天皇・後嵯峨天皇)
●三十三間堂の見どころ(蓮華王院本堂・千手観音など)を紹介しています。
三十三間堂見どころ(蓮華王院本堂・千手観音など)

【三十三間堂 歴史・簡単概要】
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)・蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)は平安時代の988年(永延2年)に太政大臣・藤原為光(ふじわらのためみつ)が造営した私邸があった場所とも言われています。その後989年(永祚元年)に為光が妻と第65代・花山天皇の女御だった娘の菩提を弔う為に法住寺(ほうじゅうじ)を創建したが、1032年(長元5年)の火災によって焼失しました。1161年(永暦2年)に後白河上皇(第77代・後白河天皇)が法住寺跡に離宮・法住寺殿(ほうじゅうじどの)を営み、三十三間堂は1165年(長寛2年)に後白河上皇が平清盛(たいらのきよもり)に資材協力を命じ、離宮・法住寺殿の一画に創建されたのが起源です。ただ1249年(建長元年)に焼失し、1266年(文永3年)に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)が本堂(三十三間堂)のみを再建しました。その後室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が修復し、関白・豊臣秀吉が東山大仏(方広寺)を建立した際、土塀や門などが整備されたと言われています。なお三十三間堂の名称は間面記法による表記「三十三間四面」に由来しています。三十三は観音に縁のある数字で、法華経などによると観音菩薩が三十三種の姿に変じ、衆生を救うと説かれています。
三十三間堂は天台宗・妙法院の境外仏堂です。
*参考・・・京都・三十三間堂(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ

【三十三間堂秋の彼岸会 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
京都・三十三間堂(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報

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