三十三間堂開山忌(例年5月3日)
三十三間堂開山忌
三十三間堂開山忌(日程・時間・・・)を紹介しています。開山忌は例年5月3日に行われています。開山忌では三十三間堂を建立した第77代・後白河天皇の命日にその遺徳を偲びます。開山忌では後白河天皇の生前の姿を写したとされる画像を祀り、独特の節をつけた声明を唱える曼荼羅供が行われます。
【三十三間堂開山忌 日程時間(要確認)】
三十三間堂開山忌は例年5月3日に行われます。
【三十三間堂開山忌 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市東山区三十三間堂廻町657
最寄り駅・バス停・・・博物館・三十三間堂前(徒歩すぐ)、東山七条(徒歩すぐ)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から三十三間堂は100系統(D1乗り場)、110系統(D1乗り場)、206系統(D2乗り場)、208系統(D2乗り場)
*四条河原町からは207系統
*四条烏丸からは207系統
*河原町丸太町からは202系統
路線・時刻表・運賃チェック
*京阪電鉄本線の場合、最寄り駅は七条駅(徒歩約5分)
【三十三間堂開山忌 歴史・簡単概要】
三十三間堂開山忌(かいざんき)・御影奉掛では三十三間堂を建立した第77代・後白河天皇の命日にその遺徳を偲びます。開山忌では後白河天皇の生前の姿を写したとされる画像を祀り、独特の節をつけた声明(しょうみょう)を唱える曼荼羅供(まんだらく)が行われます。
後白河天皇は1127年(大治2年)に第74代・鳥羽天皇の第4皇子として生まれ、1155年(久寿2年)の第76代・近衛天皇の崩御によって即位し、1158年(保元3年)に第78代・二条天皇に譲位して上皇になり、1169年(仁安4年)には出家して法皇になり、浄土宗の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)に帰依したと言われています。なお後白河天皇は一部の期間を除き、二条天皇・六条天皇(第79代)・高倉天皇(第80代)・安徳天皇(第81代)・後鳥羽天皇(第82代)の時代、約30年に渡って院政を行い、1192年(建久3年)に崩御しました。
声明は経典などに独特の節をつけた仏教音楽とされ、法会儀式などに用いられます。声明はインドから中国、中国から日本に仏教とともに奈良時代に伝わり、754年(天平勝宝4年)の奈良・東大寺の大仏開眼法要の際に用いられた記録が残っているそうです。なお声明は梵唄(ぼんばい)・梵匿(ぼんのく)・魚山(ぎょざん)・祭文(さいもん)などとも言われています。
●三十三間堂の歴史(創建から現在)を紹介しています。
三十三間堂歴史(後白河天皇・後嵯峨天皇)
●三十三間堂の見どころ(蓮華王院本堂・千手観音など)を紹介しています。
三十三間堂見どころ(蓮華王院本堂・千手観音など)
【三十三間堂 歴史・簡単概要】
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)・蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)は平安時代の988年(永延2年)に太政大臣・藤原為光(ふじわらのためみつ)が造営した私邸があった場所とも言われています。その後989年(永祚元年)に為光が妻と第65代・花山天皇の女御だった娘の菩提を弔う為に法住寺(ほうじゅうじ)を創建したが、1032年(長元5年)の火災によって焼失しました。1161年(永暦2年)に後白河上皇(第77代・後白河天皇)が法住寺跡に離宮・法住寺殿(ほうじゅうじどの)を営み、三十三間堂は1165年(長寛2年)に後白河上皇が平清盛(たいらのきよもり)に資材協力を命じ、離宮・法住寺殿の一画に創建されたのが起源です。ただ1249年(建長元年)に焼失し、1266年(文永3年)に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)が本堂(三十三間堂)のみを再建しました。その後室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が修復し、関白・豊臣秀吉が東山大仏(方広寺)を建立した際、土塀や門などが整備されたと言われています。なお三十三間堂の名称は間面記法による表記「三十三間四面」に由来しています。三十三は観音に縁のある数字で、法華経などによると観音菩薩が三十三種の姿に変じ、衆生を救うと説かれています。
三十三間堂は天台宗・妙法院の境外仏堂です。
*参考・・・京都・三十三間堂(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
【三十三間堂開山忌 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
京都・三十三間堂(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報