三十三間堂の七不思議解説-修学旅行・観光の豆知識・雑学
三十三間堂の七不思議は棟木の柳・夜泣せん・法然塔・通し矢・太閤塀
三十三間堂などの七不思議を簡単にまとめてポイント解説します。七不思議には棟木の柳・夜泣せん・法然塔・通し矢・太閤塀・南大門・親鸞蕎麦喰木像・四十七士木像・血天井・楊梅・三方正面八方にらみの獅子などがあります。三十三間堂などの七不思議は三十三間堂とその周辺にある法住寺(ほうじゅうじ)・養源院(ようげんいん)・妙法院(みょうほういん)の七不思議を集めたものです。(詳細下記参照)
【後白河法皇の伝承に由来する棟木の柳・三十三間堂】
●簡単概要‐棟木の柳(むなぎのやなぎ)は頭痛持ちの後白河法皇に由来しています。後白河法皇には前世が熊野の修行僧・蓮華坊(れんげぼう)で、その髑髏(どくろ)が熊野・岩田川に沈み、髑髏を貫いて柳が生え、風に揺られて柳が髑髏に当たることが頭痛の原因になっているという不思議な夢告がありました。そこで髑髏を観音像の頭に納めて祀ると頭痛が平癒し、柳は棟木に使われたとされています。頭痛平癒や棟木の柳は浄瑠璃・三十三間堂棟木由来などで世間に広まったが、実際には柳は棟木には使われていないそうです。なお三十三間堂は後白河法皇の由来から頭痛山平癒寺とも言われています。
●豆知識‐三十三間堂では後白河法皇の頭痛平癒にあやかる楊枝のお加持(やなぎのおかじ)が例年1月中旬に行われています。
●後白河天皇‐後白河天皇は1127年(大治2年)に第74代・鳥羽天皇の第4皇子として生まれました。1129年(大治4年)に曽祖父・白河法皇が崩御すると父が院政を開始し、藤原得子を寵愛したことから第75代・崇徳天皇に譲位を迫り、1142年(永治元年)に父と藤原得子の子である体仁親王(第76代・近衛天皇)が天皇に即位したが、1155年(久寿2年)に近衛天皇が崩御し、藤原得子の養子となっていた後白河天皇の第1皇子・守仁親王(第78代・二条天皇) が即位するまでの中継ぎとして、29歳で天皇に即位しました。後白河天皇は皇位継承がもとで起こった保元の乱で勝利したが、1158年(保元3年)に皇太子・守仁親王(第78代・二条天皇) に譲位し、その後5代・30余年にわたって院政を行いました。(停止・中断あり)後白河天皇は1192年(建久3年)に崩御しました。
【平安時代後期に発見された夜泣せん・三十三間堂】
●簡単概要‐夜泣せん(よなきせん・夜泣泉)は平安時代後期の1165年(長寛2年)に僧が夢告によって発見しました。夜泣せんは水の湧き出す音が不思議なことに人のすすり泣きに似ていたことから名付けられました。その後夜泣せん近くには地蔵尊が祀られ、子どもの夜泣き封じにご利益があると言われるようになりました。なお夜泣せんはいくら飲んでもお腹を痛めないとも言われています。
●豆知識‐地蔵尊(じぞうそん)によだれかけを奉納して祈願し、一週間後によだれかけを子どもの枕の下に敷くと夜泣きが治るとも言われています。
【「南無阿弥陀仏」が刻まれている法然塔・三十三間堂】
●簡単概要‐法然塔(ほうねんとう)は夜泣せん近くにあります。三十三間堂では鎌倉時代前期の1204年(元久元年)に土御門天皇(つちみかどてんのう)が後白河法皇の13回忌を行い、浄土宗(じょうどしゅう)の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)が六時礼讃(ろくじらいさん)を勤め、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と書写して人々に分け与えました。「南無阿弥陀仏」という6字の名号が石に刻まれ、法然塔とも、名号石とも言われるようになりました。
●豆知識‐「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀仏 どうか私を救って下さい」という意味だそうです。
【安土桃山時代に既に行われていた通し矢・三十三間堂】
●簡単概要‐通し矢(とおしや)は鎌倉時代(1185年~1333年)に正月に行っていた射礼(じゃらい)が起源とも、室町時代(1336年~1573年)末期に始まったとも言われています。そして通し矢は安土桃山時代(1573年~1603年)には既に行なわれたと伝えられています。江戸時代(1603年~1868年)には各藩の弓術家が一昼夜に何本射通したかを競った大矢数(おおやかず)が行われたそうです。なお通し矢の名称は長さ約120メートルの三十三間堂の軒下を通すことに由来しています。
●豆知識‐現在、通し矢(大的大会)では例年成人を迎えた約2千名の男女の弓道有段者や称号者が約60メートル先の大的を射って腕を競います。通し矢の大的は新成人の男女は1メートル、称号者は79センチです。決勝では新成人の的の大きさは変わらないが、称号者は的の大きさが50センチと小さくなります。
【太閤塀(重要文化財)・南大門(重要文化財)・三十三間堂】
●簡単概要‐太閤塀(重要文化財)は関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が方広寺(ほうこうじ)の大仏殿を建立した際に築造しました。南大門(重要文化財)も太閤塀と同じように秀吉が建立したと言われていたが、虹梁の刻銘から桃山時代の1600年(慶長5年)に秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が再建したと言われています。太閤塀・南大門はともに方広寺の遺構とも言われています。
●豆知識‐太閤塀は長さ約92メートル・高さ約5.3メートルです。
●歴史‐南大門以外に西大門もあったが、1895年(明治28年)に東寺の南大門として移されました。
【親鸞(しんらん)蕎麦喰木像・法住寺】
●簡単概要‐親鸞蕎麦喰木像(しんらんそばくいもくぞう))は三十三間堂の北側にある法住寺(ほうじゅううじ)にあります。親鸞蕎麦喰木像は鎌倉時代前期の1201年(建仁元年)に浄土真宗(じょうどしんしゅう)の開祖・親鸞聖人が延暦寺(えんりゃくじ)で範宴の修業中、毎夜六角堂まで100日間参籠をした際、親鸞の身代わりに留守居を勤め、天台座主(てんだいざす)・慈円(じえん・慈鎮(じちん))が振舞った蕎麦を他の僧と同じように食べたと言われています。
●豆知識‐親鸞蕎麦喰木像は親鸞が自ら刻んだとも言われています。
【四十七士(しちじゅうしちし)木像・法住寺】
●簡単概要‐四十七士木像は三十三間堂の北側にある法住寺にあります。赤穂事件以降、山科に隠棲した大石内蔵助(おおいしくらのすけ)は島原(嶋原)などの花街の行き帰りに法住寺に立ち寄り、本尊・身代わり不動明王(ふどうみょうおう・身代不動)に仇討ちを祈願したとも言われています。その為法住寺には赤穂浪士の木像が安置されています。また内蔵助の菩提寺から寄進された陶器像も置かれています。なお身代わり不動明王は平安時代末期の1183年(寿永2年)に木曽義仲(きそよしなか)が後白河上皇の離宮・法住寺殿を焼き討ちした際、木曽義仲の放った矢が天台座主に当たり、後白河上皇が難を逃れたことに由来しています。
●豆知識‐四十七士が討ち入りを行った12月14日には法住寺で義士会法要が行われます。
【血天井(ちてんじょう)・養源院】
●簡単概要‐血天井は三十三間堂の北側にある養源院(ようげんいん)にあります。本堂は江戸時代前期の1619年(元和5年)に破却された伏見城の建物が移され、正面の廊下や左右の廊下の天井は血天井と言われています。血天井は関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)の前哨戦である伏見城の戦いの際、石田三成(いしだみつのり)率いる4万の軍勢に攻められ、8月1日に徳川家の家臣・鳥居元忠(とりいもとただ)ら380余名が切腹し、その遺体が9月中旬まで放置されていたことに由来するそうです。
●豆知識‐血天井は源光庵(げんこうあん)・宝泉院(ほうせんいん)・正伝寺(しょうでんじ)などにもあります。
【楊梅(やまもも)・養源院】
●簡単概要‐楊梅(やまもも)は三十三間堂の北側にある養源院にあります。楊梅は本堂の左にあります。楊梅は関白・豊臣秀吉が伏見城に手植えしたものが、その後養源院に移されたと言われています。
●豆知識‐楊梅は東山の名木のひとつとされ、京都市指定保存樹です。
【三方正面八方にらみの獅子(しし)・養源院】
●簡単概要‐三方正面八方にらみの獅子は三十三間堂の北側にある養源院にあります。三方正面八方にらみの獅子は絵師・俵屋宗達(たわらやそうたつ)が杉戸絵(重要文化財)の表に描きました。獅子はどこから見ても正面を向いているように見えることから三方正面八方にらみの獅子と言われています。
●豆知識‐杉戸絵は伏見城で切腹した鳥居元忠らを供養する為に描かれたと言われています。
【大庫裏(国宝)・妙法院】
●概要‐大庫裏(おおくり)は三十三間堂を管理する妙法院(みょうほういん)にあります。大庫裏は1595年(文禄4年)豊臣秀吉が先祖の菩提を弔う為に千僧供養を行った際、千僧供養饗厨房として建立したと言われています。なお大庫裏は桁行約21.8メートル・梁間約23.7メートル・高さ約18メートルです。大庫裏は庫裏としては最大級とも言われています。
●豆知識‐大庫裏は本来台所で、屋根には煙出があります。
【三十三間堂 備考】
*参考・・・三十三間堂(七不思議・見どころ・・・)ホームページ