葵祭斎王代(歴代一覧・衣装・禊の儀)(2025年・山内彩さん)

斎王代

葵祭斎王代(歴代一覧・衣装・禊の儀)

葵祭斎王代情報を紹介しています。斎王代とは平安時代から鎌倉時代に賀茂社に仕え、葵祭に奉仕した斎王に倣い、1956年(昭和31年)に創設された斎王の代理です。斎王代は十二単などの煌びやかな衣装を身に付け、葵祭のヒロインと言われています。(斎王代の費用・選考基準・家柄などは掲載しておりません。)

●2025年4月14日、斎王代は東京芸大大学院生・山内彩さん(25歳)に決まりました。
*参考・・・京都新聞ホームページ
★葵祭2025の最新情報

【葵祭斎王代(さいおうだい)発表 日程】

斎王代発表は例年4月上旬頃から4月中旬頃に行われます。大安に発表されることが多いようです。なお斎王代は発表後に上賀茂神社・下鴨神社に参拝します。
葵祭斎王代発表

【葵祭・路頭の儀 日程(要確認)】

葵祭・路頭の儀は例年5月15日に行われます。ただ悪天候の場合、翌16日に順延されます。路頭の儀では斎王代など人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし・およよ)1丁などの時代行列が巡行します。京都御所(京都御苑)から下鴨神社・上賀茂神社の順に巡行します。
葵祭2025日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)

【斎王代の概要・歴史】

斎王代とは平安時代(794年~1185年)前期の810年(大同5年)から鎌倉時代(1185年~1333年)前期の1212年(建暦2年)までの約400年間、賀茂社(上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ))に仕え、葵祭(賀茂祭)に奉仕した斎王に倣い、1956年(昭和31年)に創設された斎王の代理です。
●斎王代は京都市内の未婚の一般女性などから選ばれます。葵祭行列保存会が茶道関係者の推薦により、着物を着慣れた京都ゆかりの女性から選ぶそうです。

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【令和・平成の斎王代歴代一覧】

令和・平成の斎王代は下記の通りです。初代斎王代(1956年)は易学あや(荒田文子)さんです。なお姉妹・親子など家族で斎王代になった例があります。
●令和6年-松浦璋子、7年-山内彩
●令和5年-松井陽菜、4年-選ばれず、3年-選ばれず、2年-選ばれず、元年-負野李花
●平成30年-坂下志保、29年-富田紗代、28年-西村和香、27年-白井優佐、26年-太田梨紗子
●平成25年-長瀬摩衣子、24年-亀井敦子、23年-金井志帆、22年-川崎麻矢、21年-千万紀子
●平成20年-村田紫帆、19年-森川香絵、18年-藤田菜奈子、17年-齋藤彩子、16年-加納麻里
●平成15年-山田利奈、14年-倉斗絢子、13年-加島慶子、12年-佐竹亜紀、11年-吉田加緒理
●平成10年-土井優子、9年-山田奈々、8年-大島朱美子、7年-大島朱美子、6年-池坊美佳
●平成5年-山本和嘉子、4年-井沢満美、3年-大島有美子、2年-西村和納、元年-山田陽子
●1988年-坂下美保、1986年-井沢美紀子、1985年-川崎朋子、1984年-西村和紗、1980年-西村和美
●1978年-金井秀美、1967年-森川薫、1962年-山田博子、1956年-荒田文子(敬称略)

【斎王代の衣装・化粧・着付け】

斎王代は十二単(じゅうにひとえ)を身に着け、垂髪(おすべらかし)の髪に金属製の飾りである心葉(こころば)を頂きに付け、額の両側には飾り紐である日蔭糸(ひかげのいと)を下げ、白塗りにお歯黒を施し、手に桧扇(ひおうぎ)を持ち、紅色の帖紙(たとう)を懐に入れています。ちなみに葵祭のハイライトである路頭の儀(時代行列)の際には供奉者が担ぐ腰輿(およよ)に乗っています。
●十二単は五衣裳唐衣(いつつぎぬものからぎぬ)・唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)とも言われ、約20キロもあるそうです。十二単は「単」で表す袿(うちき・うちぎ(袿衣))の枚数が12枚であることに由来しています。
●化粧・着付けは舞妓さんも通うミナミ美容室の3代目女主人で、有職美容師・南登美子さんが59年間担当しています。十二単を着付けるまで1時間半も掛かるそうです。ちなみに化粧は当初白塗りは真っ白に近かったが、最近は赤みを増し、鼻筋を立て、眉は太め、口紅はおちょぼ口から少し大きめで、伝統を守りながら時代にも合わせているそうです。なお南登美子さんは平成28年度の「京都府の現代の名工」に選ばれました。
●2008年(平成20年)に十二単の内、亀甲の文様の表着・表着の上に羽織る桃色地に葵の文様をあしらった唐衣・袴の上に纏って後ろ姿を飾る白を基調に松を描いた裳が新調され、費用は550万円でした。表着・唐衣・裳はいずれも生地が正絹で、有職織師・喜多川俵二(人間国宝)が制作しました。
葵祭見どころ

【斎王代の禊の儀(みそぎのぎ)】

斎王代は葵祭に先立って、禊の儀によって身を清め、罪・穢れを祓います。上賀茂神社ではならの小川、下鴨神社では御手洗池(御手洗川)に両手をひたします。なお禊の儀は上賀茂神社と下鴨神社の1年交代制です。
●斎王はかつて鴨川で御禊神事を行っていました。場所は占いで決め、毎回違った場所で行われていました。ただ殆どが一条大路から二条大路の間の鴨川で行われていました。ちなみに「源氏物語」の中では御禊神事(斎院御禊(さいいんぎょけい))の際、光源氏の正室・葵の上と光源氏の恋人の一人・六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)による車争いが記されています。なお鴨川は古代上流が賀茂氏の本拠地で、賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)はその氏神を祀っていました。
上賀茂神社斎王代以下女人列御禊神事下鴨神社斎王代以下女人列御禊神事

【斎王代の起源である斎王(さいおう)】

斎王代の起源である初代斎王は第52代・嵯峨天皇の皇女・有智子内親王(うちこないしんのう)です。嵯峨天皇は兄・平城上皇(第51代・平城天皇)と対立し、賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)の祭神・賀茂大神に皇女を賀茂社の神迎えの儀式に奉仕する阿礼少女(あれおとめ)に捧げると祈願し、810年(大同5年)の薬子の変(くすこのへん)で勝利したことから有智子内親王が初代斎王になりました。
●斎王は伊勢神宮に使えた斎宮(斎王)に倣って選ばれたそうです。ただその後賀茂社と伊勢神宮の距離の関係から近い賀茂社の斎王の方が重んじられたとも言われているそうです。斎王はかつて天皇の娘である未婚の内親王(ないしんのう)または女王(じょうおう)から選ばれました。斎王は宮中初斎院で2年間潔斎(けっさい)した後、不浄・仏事を避けて清浄な生活を送りながら奉仕し、多くの斎王が生涯独身で過ごしたそうです。第62代・村上天皇の皇女・選子内親王(せんしないしんのう)は975年(天延3年)から1031年(長元4年)まで50年以上斎院に勤め、大斎院と言われたそうです。
葵祭斎王

【斎王ゆかりの賀茂斎院(かもさいいん)】

斎王代の起源である斎王が勤めた賀茂斎院(紫野斎院)は平安時代前期の810年(大同5年)に設置されました。斎王は平安時代末期に源平の争乱が起こるとしばしば途絶え、鎌倉時代に徐々に衰退し、鎌倉時代前期の1212年(建暦2年)に第82代・後鳥羽天皇の皇女で、最後の斎王である35代・礼子内親王(いやこないしんのう)が退下しました。その後1221年(承久3年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう))が鎌倉幕府執権・北条義時(ほうじょうよしとき)に対して挙兵した承久の乱(じょうきゅうのらん)が起こると約400年間続いた賀茂斎院(紫野斎院)は廃絶しました。なお賀茂斎院は内院・外院からなる二重構造で、内院に斎王の寝殿・賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)の祭神を祀る神殿などがあり、外院に事務などを担当する斎院司(さいいんし・いつきのみやのつかさ)・蔵人所(くろうどどころ)・大炊殿(おおいどの)などが置かれ、長官以下官人・内侍(ないし)・女嬬(にょじゅ)などが仕えていました。
●賀茂斎院(紫野斎院)は上京区上御霊前通大宮西入にあり、賀茂斎院跡の碑は櫟谷七野神社(上京区上御霊前通智恵光院東入)内に建立されています。
賀茂斎院跡(アクセス・マップ・・・)

【斎王代奉仕の行事】

斎王代は葵祭だけでなく、上賀茂神社の賀茂曲水宴(かもきょくすいのえん)などでも奉仕し、賀茂曲水宴ではお題を発表します。賀茂曲水宴は川に盃を流し、盃が目の前を通り過ぎる前に和歌を詠む平安時代の雅な曲水宴を再現したものです。
●賀茂曲水宴は平安時代末期の1182年(寿永元年)に神主・賀茂重保(かものしげやす)が15~16名の歌人を招いて行った曲水宴が起源と言われています。
上賀茂神社賀茂曲水宴

【葵祭斎王代 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭2025日程(路頭の儀・前儀・後儀・・・)

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