三十三間堂の見所ランキング-修学旅行・観光で見学必見
三十三間堂の見所は蓮華王院本堂・千手観音・南大門・通し矢などです。
三十三間堂の見所ランキングを紹介します。見所は1位が後嵯峨上皇が再建した蓮華王院本堂(国宝)、2位が鎌倉時代の千手観音坐像(国宝)と1,001体の千手観音立像(国宝)、3位が豊臣秀頼が建立した南大門(重要文化財)です。なお国宝・重要文化財など修学旅行・観光で見るべき名所を紹介しています。(詳細下記参照)
- 1位-後嵯峨上皇が再建し、750年以上の歴史がある蓮華王院本堂(国宝)
- 2位-鎌倉時代中期に造仏され、750年以上の歴史がある千手観音坐像(国宝)
- 3位-豊臣秀頼が建立し、400年以上の歴史がある南大門(重要文化財)
- 番外-平安時代後期に起源があるとも言われる通し矢
【後嵯峨上皇が再建し、750年以上の歴史がある蓮華王院本堂(国宝)】
蓮華王院本堂は鎌倉時代(1185年~1333年)中期に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)が再建し、750年以上の歴史があります。蓮華王院本堂は長さが約120メートルあります。蓮華王院本堂は三十三間堂最大の名所です。なお蓮華王院本堂は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)3月29日に国宝に指定されました。
- 蓮華王院本堂の概略-蓮華王院本堂は南北約120メートル・奥行き約22メートル・高さ約16メートルです。蓮華王院本堂は本尊・千手観音(せんじゅかんのん)坐像(国宝)、本尊の左右に1,000体の千手観音立像(国宝)、本尊の背後に1,001体目の千手観音立像(国宝)などを安置しています。ちなみに蓮華王院の名称は観音の王である千手観音の別称「蓮華王」に由来しています。蓮華王院本堂は本尊・千手観音坐像や1,001体の千手観音立像を安置していることから大きさを何となく感じることができると思います。ただ閉ざされた堂内では実際の大きさよりも小さく感じたりすることがよくあります。その為蓮華王院本堂の本当の大きさを実感するにはその周囲を歩くことをおすすめです。東側は比較的歩きやすく、東側を北側から南側に歩くと大きさを実感できるはずです。蓮華王院本堂周辺では東側に庭園が整備され、西側では例年1月に通し矢・大的大会(おおまとたいかい)が行われ、南西には三十三間堂の鎮守社・久勢稲荷大明神が祀られています。
- 蓮華王院本堂の歴史-蓮華王院本堂は鎌倉時代(1185年~1333年)中期の1266年(文永3年)に後嵯峨上皇が再建しました。蓮華王院本堂は洛中の建物の中で千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう・大報恩寺(だいほうおんじ))の本堂に次いで2番目に古い建物です。ちなみに京都では室町時代(1336年~1573年)中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、多くの建物が焼失したと言われています。室町時代中期に天台座主(てんだいざす)にもなった室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が屋根の葺き替えなど約5年を掛けて修復を行い、桃山時代(1583年~1603年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)も方広寺(ほうこうじ)の大仏殿を建立した際に修復を行いました。江戸時代(1603年~1868年)前期の1649年(慶安2年)から1651年(慶安4年)頃に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の命によって修復が行われ、向拝(こうはい)が設けられました。1930年(昭和5年)の修理の際に極彩色の文様が現れ、かつて花や雲文様の極彩色だったことが分かりました。ちなみに蓮華王院本堂は平安時代(794年~1185年)後期の1165年(長寛2年)に後白河上皇(第77代・後白河天皇)が創建し、鎌倉時代後期の1249年(建長元年)に建長の大火(けんちょうのたいか)によって多くの堂塔や仏像とともに焼失しました。ただ千手観音立像124体と二十八部衆立像が救出されて焼失を免れたと言われています。
- 蓮華王院本堂の重要人物-第77代・後白河天皇は1127年(大治2年)に鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇(とばてんのう))の第4皇子として生まれました。1129年(大治4年)に曽祖父・白河法皇(第72代・白河天皇(しらかわてんのう))が崩御すると父が院政を開始し、藤原得子(ふじわらのとくし)を寵愛したことから第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)に譲位を迫り、1142年(永治元年)に父と藤原得子の子が第76代・近衛天皇(このえてんのう))に即位しました。しかし1155年(久寿2年)に近衛天皇が崩御し、立太子を経ないまま後白河天皇に即位しました。皇位継承がもとで起こった保元の乱(ほうげんのらん)に勝利したが、1158年(保元3年)に第78代・二条天皇(にじょうてんのう) に譲位し、二条天皇、第79代・六条天皇(ろくじょうてんのう)、第80代・高倉天皇(たかくらてんのう)、第81代・安徳天皇(あんとくてんのう)、第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の5代・30余年にわたって院政を行いました。第77代・後白河天皇は1192年(建久3年)に崩御しました。
- 蓮華王院本堂の構造-蓮華王院本堂は和様(わよう)です。蓮華王院本堂は入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。向拝(こうはい)付きです。
- 三十三間堂の由来-蓮華王院本堂は間面記法(けんめんきほう)で「三十三間四面」になることから三十三間堂の名称の由来になっています。三十三間とは本堂内部の柱間が33あることを意味しています。「三十三」は観音菩薩の変化身三十三身にゆかりがあります。観音菩薩は仏身・辟支仏身・声聞身・梵王身・帝釈身・自在天身・大自在天身・天大将軍身・毘沙門身・小王身・長者身・居士身・宰官身・婆羅門身・比丘身・比丘尼身・優婆塞身・優婆夷身・長者婦女身・居士婦女身・宰官婦女身・婆羅門婦女身・童男身・童女身・天身・龍身・夜叉身・乾闥婆身・阿修羅身・迦楼羅身・緊那羅身・摩ご羅伽身・執金剛身に姿を変え、人々の救いを求める声を聞き、その苦悩から救済すると言われています。
【鎌倉時代中期に造仏され、750年以上の歴史がある千手観音坐像(国宝)】
本尊・千手観音坐像は鎌倉時代(1185年~1333年)中期に造仏され、750年以上の歴史があります。124体の千手観音立像は平安時代(794年~1185年)に造仏されました。
- 千手観音坐像の概略-千手観音立像は本尊・千手観音坐像の左右にある10段の階段に1段50体、合計1,000体が安置されています。(2×10×50=1,000)また本尊・千手観音坐像の背後に1,001体の千手観音立像が安置されています。1,001体の千手観音立像は一体一体表情が異なり、「必ず会いたい人に似た像がある」とも言われています。千手観音立像は尊顔をじっくり眺めるのがおすすめです。ただ三十三間堂は京都を代表する人気観光スポットの為、観光客や修学旅行生が多かったり、千手観音立像の数が多かったりすることから尊顔をじっくり眺めるのが難しいかもしれません。三十三間堂には早朝に訪れるのがおすすめです。なお会いたい人がいない場合、自分の顔に似た千手観音立像を探すのもいいかもしれません。
- 千手観音坐像の歴史-千手観音坐像は鎌倉時代(1185年~1333年)中期の1254年(建長6年)に仏師・湛慶(たんけい)が造仏しました。84歳で亡くなった湛慶が亡くなる2年前に完成させました。ちなみに湛慶は千手観音立像の内、10号・20号・30号・40号・520号・530号・540号・550号・560号の9体も造仏し、蓮華王院本堂の最前列に安置されています。1,001体の千手観音立像は平安時代から室町時代に造仏されました。124体が平安時代(794年~1185年)、876体が蓮華王院本堂再建時の鎌倉時代(1185年~1333年)、1体が室町時代(1336年~1573年)に造仏されました。ちなみに鎌倉時代には16年掛けて造仏されたと言われています。鎌倉時代以降に造仏された約500体に仏師名が残され、奈良仏師(慶派(康円(こうえん)・行快(ぎょうかい)))、京都仏師(円派(隆円(りゅうえん)・昌円・栄円・勢円)、院派(院継・院遍・院承・院恵・院豪・院賀))が動員されたと言われています。ちなみに運慶の銘もあるが、後世の偽銘と言われています。1973年(昭和48年)から1年に数体~50体の修理が開始され、2017年(平成29年)に約45年に及ぶ修理が完了しました。
- 千手観音坐像の様式-千手観音坐像は寄木造(よせぎづくり)です。千手観音立像は寄木造または割矧造(わりはぎづくり)です。像高は1.6メートル前後です。
- 千手観音坐像の豆知識-兵庫県の朝光寺に安置されている千手観音菩薩立像は三十三間堂のものと様式が一致し、三十三間堂から移されたと言われています。
【豊臣秀頼が建立し、400年以上の歴史がある南大門(重要文化財)】
南大門は桃山時代(1583年~1603年)に豊臣秀頼が建立し、400年以上の歴史があります。南大門は拝観エリア外にあり、時間を気にすることなく眺めることができます。なお南大門は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財に指定されました。
- 南大門の概略-南大門は境内南端に位置し、東西に走る塩小路通(しおこうじどおり)に面し、南北に走る道路が通っています。南大門は三十三間堂やその中に安置されている千手観音などと異なり、修学旅行生や観光客が拝観することはあまり多くないようです。ただ南大門を拝観すると三間一戸(さんげんいっこ)の八脚門(はっきゃくもん)の大きさや歴史を感じることができます。ちなみに三十三間堂は関白・豊臣秀吉が南北約250メートル・東西約200メートルの方広寺の大仏殿を建立した際、その寺域に取り込まれ、1596年(文禄5年)に慶長伏見地震で大仏などが倒壊し、その後豊臣秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が復興を図りました。
- 南大門の歴史-南大門はかつて桃山時代(1583年~1603年)に関白・豊臣秀吉が建立したと言われていたが、虹梁(こうりょう)の刻銘(こくめい)から桃山時代の1600年(慶長5年)に豊臣秀吉の子・豊臣秀頼が建立したと言われています。
- 南大門の構造-南大門は三間一戸(さんげんいっこ)の八脚門(はっきゃくもん)で、切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺です。
【平安時代後期に起源があるとも言われる通し矢】
通し矢は確証がないが、平安時代(794年~1185年)後期に起源があるとも言われ、850年以上の歴史があるとも言われています。
- 通し矢の概略-通し矢(大的大会)は例年1月中旬頃に三十三間堂の西側に設けられた特設射場で行われます。成人を迎えた約2千名の男女の弓道有段者や称号者が約60メートル先の大的を射って腕を競います。通し矢では2本の矢が全て的中した皆中者で決勝が行われます。通し矢には競技者とその家族、見物客や参拝者などがたくさん訪れ、通し矢を見るのは大変です。特に着物姿が絵になる女性競技者が通し矢を行う時間帯は本当に大変です。その為通し矢をじっくり見るなら早朝に三十三間堂を訪れるのがおすすめです。ちなみに通し矢が行われる日は三十三間堂の拝観料が無料になります。
- 通し矢の歴史-通し矢は起源が明確ではありません。通し矢は桃山時代(1583年~1603年)には既に行われていたとも言われています。
- 通し矢の名称-通し矢の名称は三十三間堂の軒下を通すことに由来しています。なお通し矢は江戸時代(1603年~1868年)に各藩の弓術家が三十三間堂の軒下で矢を射った大矢数に因んだ行事です。
【三十三間堂 備考】
*参考・・・京都・三十三間堂(見所・アクセス・・・)ホームページ