大豊神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

大豊神社の歴史を時代別年表にまとめ
大豊神社の歴史を簡単にまとめています。大豊神社は社伝によると887年(仁和3年)に藤原長良の次女で、宇多天皇の女官・藤原淑子が宇多天皇の病気平癒祈願の為、医薬の神である少彦名命を椿ヶ峰に祀ったのが起源と言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)
【椿ヶ峰(つばきがみね)】
●椿ヶ峰(椿ケ峰)は標高約132メートルで、東山三十六峰(ひがしやまさんじゅうろっぽう)の第15峰目です。東山三十六峰は北側の標高約848メートルの比叡山(ひえいざん)から南側の標高約233メートルの稲荷山(いなりやま)までの南北長さ約12キロです。椿ヶ峰では椿ヶ峰を御神体とする山霊崇拝の社が建立されていたと言われています。
【大豊神社の起源・始まり】
●大豊神社は社伝によると887年(仁和3年)に第55代・文徳天皇(もんとくてんのう)の外伯父、第57代・陽成天皇(ようぜいてんのう)の外祖父である権中納言・藤原長良(ふじわらのながら・ふじわらのながよし)の次女で、第59代・宇多天皇(うだてんのう)の女官(尚侍)・藤原淑子(ふじわらのしゅくし・ふじわらのよしこ)が宇多天皇の病気平癒祈願の為、医薬の神である少彦名命(すくなひこなのみこと)を椿ヶ峰に祀ったのが起源と言われています。藤原淑子は宇多天皇となる定省王(さだみおう)を猶子とし、その即位に貢献したと言われています。当初、椿ヶ峰山天神(ちんぽうざんてんじん)と称し、勅願社になりました。その後皇室・公家などから篤く信仰され、大宝大明神(おおたからだいみょうじん)と言われました。なお宇多天皇の信任の厚かった菅原道真(すがわらのみちざね)と第15代・応神天皇(おうじんてんおう)が祭神として合祀されました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
●889年(寛平元年)に藤原淑子が亡夫・藤原氏宗(ふじわらのうじむね)の菩提(ぼだい)を弔う為に円成寺(えんじょうじ)を創建し、鎮守社になりました。円成寺は定額寺(じょうがくじ)に列せられた真言宗(しんごんしゅう)の寺院でした。
●1017年(寛仁元年)に現在の場所である鹿ヶ谷(ししがたに)に移され、神号「大豊大明神(おおとよだいみょうじん)」を賜わりました。北は法然院(ほうねんいん)・霊鑑寺(れいかんじ)、南は永観堂(えいかんどう)・南禅寺(なんぜんじ)までの産土神(うぶすながみ)になりました。社運が盛大で、神域が広大になりました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
●南北朝時代に兵火で焼失したが、その後再建されました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
●1467年(応仁元年)に応仁の乱(おうにんのらん)が起こり、兵火で焼失したが、その後再建されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●1954年(昭和29年)に京都市の名勝地に指定されました。
●1969年(昭和44年)に末社・大国社(だいこくしゃ)が建立されました。
【大豊神社を創建した藤原淑子】
藤原淑子は838年(承和5年)に権中納言・藤原長良の次女として生まれました。856年(斉衡3年)に父・藤原長良が亡くなり、860年(貞観2年)に藤原氏宗の後妻になりました。同年に無位から従五位上に叙され、宮廷に出仕しました。872年(貞観14年)に夫・藤原氏宗が亡くなって寡婦になりました。その後も兄で、関白・藤原基経と連携して後宮を采配し、879年(元慶3年)に従三位に昇叙し、882年(元慶6年)に正三位に昇叙しました。第58代・光孝天皇となる時康親王の第7王子で、第59代・宇多天皇となる定省王を猶子としました。また橘広相の娘・義子を養女とし、定省王(源定省)の室にしました。884年(元慶8年)に時康親王が光孝天皇が即位すると尚侍に任じられました。887年(仁和3年)に光孝天皇が重態となると定省王(源定省)が皇族に復帰して立太子され、光孝天皇の崩御に宇多天皇に即位すると従一位に昇叙しました。光孝天皇・宇多天皇の即位には藤原淑子の力が大きかったと言われています。第56代・清和天皇、第57代・陽成天皇、第58代・光孝天皇、第59代・宇多天皇、第60代・醍醐天皇の後宮を采配し、藤原北家の権勢をゆるぎないものとしました。なお藤原淑子は906年(延喜6年)に亡くなりました。
【大豊神社の歴史 備考】
*参考・・・大豊神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia

















