智恵光院の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

智恵光院

智恵光院の歴史を時代別年表にまとめ

智恵光院の歴史を簡単にまとめています。智恵光院は1294年(永仁2年)に五摂家に数えられた鷹司家の始祖・鷹司兼平が知恩院8世・如空国師(如一国師)を開山に自らの菩提寺として岡崎の法勝寺北に創建したと言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)

智恵光院(アクセス・歴史・・・)

【智恵光院通(ちえこういんどおり)】

●智恵光院通は北側の北大路通(きたおおじどおり)大徳寺(だいとくじ)門前と南側の竹屋町通(たけやまちどおり)二条城北側を南北に結んでいます。途中の寺之内通(てらのうちどおり)・丸太町通(まるたまちどおり)で鍵の手に折れています。智恵光院通では太平洋戦争中の第3次建物疎開により、寺之内通と丸太町通の間が消防空地としてで拡幅されました。
●岡崎(平安神宮南側)には法勝寺(ほっしょうじ)・最勝寺(さいしょうじ)・円勝寺(えんしょうじ)・成勝寺(じょうしょうじ)・延勝寺(えんしょうじ)・尊勝寺(えおんしょうじ)が建立され、六勝寺(ろくしょうじ)と言われていました。

【智恵光院の起源・始まり】

●智恵光院・称念山平等寺(びょうどうじ)は1294年(永仁2年)に近衛家(このえけ)・九条家(くじょうけ)・二条家(にじょうけ)・一条家(いちじょうけ)とともに五摂家に数えられた鷹司家(たかつかさけ)の始祖・鷹司兼平(たかつかさかねひら)が知恩院(ちおいん)8世・如空国師(にょくうこくし・如一国師(にょいちこくし))を開山に自らの菩提寺(ぼだいじ)として岡崎の法勝寺北に創建したと言われています。その後聞益上人(もんえきしょうにん)が塔頭(たっちゅう)も建立したと言われています。

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【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●江戸時代前期に知恩院37世・玄誉が江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の意向により、現在の場所に移して再興したとも言われています。
●1636年(寛永13年)に焼失しました。
●寛文年間(1661年~1673年)に第112代・霊元天皇(れいげんてんのう)の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵(ろくじぞう)以外の48寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所地蔵巡り(京都48願寺)に数えられました。寛文年間に第15番札所として栄えたと言われています。なお六地蔵は大善寺(だいぜんじ・伏見地蔵(ふしみじぞう))・浄禅寺(じょうぜんじ・鳥羽地蔵(とばじぞう))・地蔵寺(じぞうじ・桂地蔵(かつらじぞう))・源光寺(げんこうじ・常盤地蔵(ときわじぞう))・上善寺(じょうぜんじ・鞍馬口地蔵(くらまぐちじぞう))・徳林庵(とくりんあん・山科地蔵(やましなじぞう))です。
●1730年(享保15年)に西陣焼けで焼失しました。
●1788年(天明8年)に天明の大火で焼失しました。
●1855年(安政2年)に現在の本堂が再建されました。本堂には鎌倉時代に仏師・快慶(かいけい・安阿弥)が造仏し、寺町の法然寺(ほうねんじ)に安置されていた阿弥陀如来(あみだにょらい)像が移されたと言われています。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●太平洋戦争中の建物疎開により、四ケ寺の塔頭が廃寺になりました。

【智恵光院の開基である鷹司兼平】

鷹司兼平は1228年(安貞2年)に関白・近衛家実と藤原忠行の娘の四男として生まれました。1237年(嘉禄3年)に元服して正五位下に叙されました。その後右近衛少将に任じられ、右近衛少将如元・播磨権守・権中納言・権大納言・右近衛大将などを歴任し、1244年(寛元2年)に右大臣になり、1246年(寛元4年)に19歳で左大臣になり、1252年(建長4年)に25歳で摂政・太政大臣になり、1254年(建長6年)に関白になりました。その後1261年(弘長元年)に一旦辞任するが、1275年(建治元年)に再度摂政になり、1276年(建治2年)に再度太政大臣になりました。1290年(正応3年)に出家し、覚理と号しました。鷹司兼平は約23年間にわたって摂政・関白に任じられました。鷹司兼平は能書家として著名で、日記に「称念院関白記(兼平公記)」があります。また勅撰和歌集に4首が入集しています。なお鷹司兼平は1294年(永仁2年)8月30日に亡くなりました。

【智恵光院の歴史 備考】
*参考・・・智恵光院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia

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