行願寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

行願寺

行願寺の歴史を時代別年表にまとめ

行願寺の歴史を簡単にまとめています。行願寺は「百錬抄」などによると1004年(寛弘元年)に行円上人が一条北辺堂跡に創建したと言われています。行円上人は賀茂の霊木・槻の木で千手観音像を造仏し、本尊として安置したと言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)

行願寺(アクセス・歴史・・・)

【一条通(一条大路)】

●一条通(いちじょうどおり)は東側の烏丸通(からすまどおり)と西側の右京区花園付近を結ぶ東西の通りです。右京区花園から更に西側に伸びて清凉寺(せいりょうじ・嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう))までを一条通という場合もあります。一条通は平安京(へいあんきょう)の一条大路(いちじょうおおじ)にあたります。一条大路は平安京の北端を走る通りだったが、平安時代(794年~1185年)中期以降に一条大路を越え、北側に市街地が拡大しました。
●一条北辺堂(いちじょうほくへんどう)は「日本紀略(にほんきりゃく)」永祚元年(989年)8月13日条に「一条北辺堂舎倒壊」と記され、平安時代(794年~1185年)中期以前に創建され、一条小川にあったと言われています。

【行願寺の起源・始まり】

●行願寺は「百錬抄(ひゃくれんしょう)」・「日本紀略」などによると1004年(寛弘元年)に行円上人(ぎょうえんしょうにん)が一条北辺堂跡に創建したと言われています。行円上人は賀茂の霊木・槻の木(つきのき)で千手観音(せんじゅかんのん)像を造仏し、本尊として安置したと言われています。行願寺の寺号は一切の人々の成仏(じょうぶつ)を「願い、行(ぎょう)じる」との思いが込められているそうです。行円上人はかつて狩猟を業とし、仔鹿を孕んでいた母鹿(雌鹿)を射止めたことを悔やんで、常にその皮をまとっていたことから「皮聖(かわひじり・革聖)」とも言われ、行願寺は革堂(こうどう)と言われるようになりました。行円上人は密教行者のしるしである宝冠も被っていたそうです。行願寺は一条大路にある「革聖のお堂」ということで、「一条かわどう」とも言われていたそうです。なお行願寺は京都御苑西側の京都市上京区に創建され、その後移転したが、付近に革堂町・革堂仲之町・革堂西町の町名が残されています。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●1012年(寛弘9年)に太政大臣・藤原道長(ふじわらのみちなが)の子・藤原顕信(ふじわらのあきのぶ)が行円上人に帰依し、行円上人のもとで剃髪・出家しました。
●1140年(保延6年)に多宝塔が落雷で焼失しました。落雷は藤原道長が創建した法成寺(ほうじょうじ・無量寿院(むりょうじゅいん))の西塔にもあり、西塔も焼失しました。その後多宝塔は再建されました。
●1151年(仁平元年)に多宝塔などの伽藍が焼失しました。その後伽藍が再建されたと言われています。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

●1204年(建仁4年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう))が行幸したと言われています。
●1242年(仁治3年)に住僧の放火により、門などを残し、多くの伽藍が焼失しました。その後再建されたと言われています。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

●興国年間(1340年~1346年)に焼失したと言われています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

●1463年(寛正4年)に室町幕府第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が参詣したと言われています。
●1467年(応仁元年)に応仁の乱(おうにんのらん)が起こり、伽藍が焼失したと言われています。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

●1590年(天正18年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により、寺町荒神口(京都御苑東側)に移されました。
●安土桃山時代に寿老神堂が建立されました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●1708年(宝永5年)の宝永の大火後に現在の場所に移りました。
●1804年(文化元年)に鐘楼(京都市指定有形文化財)が再建されました。
●1815年(文化12年)に現在の本堂(京都市指定有形文化財)が再建されました。堂内には行円上人作とも言われる本尊・千手観音像を安置しています。
●1864年(元治元年)に蛤御門の変(はまぐりもんのへん)で正門が焼失したと言われています。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●2005年(平成17年)に平成洛陽三十三所観音が復興されました。
●近年に地域猫に餌場や寝ぐらを提供し、「猫の寺」とも言われています。

【行願寺の開山である行円上人】

行円上人は生没年不詳で、豊後(大分県)出身と言われています。狩人であったが、ある日雌鹿を射止めた際に傷口から出血とともに仔鹿が生れたのを見て、発心して仏門に入ったと言われています。比叡山横川の僧になり、千手陀羅尼を誦呪し、1004年(寛弘元年)に行願寺(革堂)を創建し、四十八講・釈迦講・四部講などを開いて「法華経」信仰を広めました。1012年(寛弘9年)に太政大臣・藤原道長の子・藤原顕信が帰依して出家し、貴賤を問わずに師事されました。1016年(長和5年)に多くの人々を集めて粟田の道筋の石を取り除いたと言われています。

【行願寺の歴史 備考】
*参考・・・行願寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)

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