寂光院の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

寂光院の歴史を時代別年表にまとめ
寂光院の歴史を簡単にまとめています。寂光院は594年(推古天皇2年)に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔う為に創建したと言われています。当初、玉泉寺と言われ、当初の本尊は聖徳太子作の六万体地蔵尊だったと言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)
【玉照姫(慧善比丘尼)】
●玉照姫(たまてるひめ)は第31代・用明天皇(ようめいてんのう)の皇子・聖徳太子(しょうとくたいし)の乳母だったが、548年(敏達天皇13年)に出家して慧善比丘尼(えぜんびくに・恵善尼)と称し、日本仏教最初の三比丘尼(さんびくに)に数えられたと言われています。三比丘尼は善信尼とその弟子である禅蔵尼・恵善尼(慧善尼)です。
【寂光院の起源・始まり】
●寂光院は寺伝によると594年(推古天皇2年)に聖徳太子が父・用明天皇の菩提(ぼだい)を弔う為に創建したと言われています。当初、玉泉寺と言われ、当初の本尊は聖徳太子作の六万体地蔵尊(ろくまんたいじぞうそん)だったと言われています。初代住職は玉照姫(慧善比丘尼)と言われています。その後尼寺として高貴な家門の姫君らが住職になり、法燈を守り続けてきました。なお寂光院は「都名所図会」によると真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が創建したとも言われています。また「京羽二重」によると大原に隠棲して大原声明(しょうみょう)を完成させた融通念仏(ゆうずうねんぶつ)の祖である聖応大師(しょうおうだいし)・良忍(りょうにん)が創建したとも言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
●1165年(永万元年)に第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)の寵愛を受けた女官で、建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)に仕えた阿波内侍(あわのないじ)が入寺し、証道比丘尼と称して第2代住職になりました。阿波内侍は草生(くさお)の里で柴売りをし、「大原女(おおはらめ)」のモデルになったと言われています。
●1185年(文治元年)9月に平清盛(たいらのきよもり)の娘で、第80代・高倉天皇(たかくらてんのう)の中宮、そして第81代・安徳天皇(あんとくてんのう)の生母・建礼門院徳子が入寺し、真如覚比丘尼と称して第3代住職になりました。建礼門院徳子は1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で滅亡した平家一門と安徳天皇の菩提を弔いながら終生を過ごしました。その後平清盛の五男・平重衡(たいらのしげひら)の妻・藤原輔子も出家して建礼門院徳子に仕えました。なお1156年(保元元年)に平清盛が保元の乱で源義朝(みなもとのよしとも)とともに第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう)方について勝利し、1159年(平治元年)に平治の乱で源義朝らの源氏を追討して対立勢力を一掃しました。1167年(仁安2年)に平清盛が従一位・太政大臣になり、1171年(承安元年)に娘・建礼門院徳子を第80代・高倉天皇(たかくらてんのう)に入内させ、翌1172年(承安2年)に言仁親王を産み、1180年(治承4年)に言仁親王が第81代・安徳天皇(あんとくてんのう)に即位しました。平家は隆盛を極め、平時忠(たいらのときただ)をして「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめした。1181年(治承5年)に平清盛が亡くなり、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いで平家は滅亡しました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
●1186年(文治2年)4月下旬に「平家物語」大原御幸(おおはらごこう)によると後白河法皇(第77代・後白河天皇)が建礼門院徳子をお忍びで訪ね、翠黛山の花摘みから帰って来た建礼門院徳子と対面したと言われています。後白河法皇は「池水に 汀の桜 散り敷きて 波の花こそ 盛なりけれ」、建礼門院徳子は「思ひきや 深山の奥に 住まひして 雲井の月を よそに見んとは」と和歌を詠み、汀の池(みぎわのいけ)・汀の桜(みぎわのさくら)の由来になりました。
●1229年(安貞3年)に来迎院(らいごういん)・寂如の発願により、旧本尊・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)立像が造仏されたと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●1603年(慶長8年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が片桐且元(かたぎりかつもと)を工事奉行として本堂の外陣を修理しました。
●江戸時代初期に豊臣秀頼と生母・淀君(よどぎみ)、そして江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)らが再興に尽力しました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●1868年(明治元年)に太政官達旨によって延暦寺(えんりゃくじ)の末寺になりました。
●1929年(昭和4年)に第124代・昭和天皇(しょうわてんのう)の大典に使用された茶室「孤雲庵」が移されました。
●1986年(昭和61年)に旧本尊・地蔵菩薩立像などが重要文化財に指定されました。
●2000年(平成12年)5月9日に放火によって本堂が焼失し、鎌倉時代に造仏された旧本尊・地蔵菩薩立像(重要文化財)も焼失しました。
●2004年(平成16年)にご神木・千年姫小松が枯死しました。
●2005年(平成17年)6月2日に現在の本堂が再建されました。新本尊・地蔵菩薩立像は美術院国宝修理所が3年半を掛けて制作され、2005年(平成17年)に完成しました。
●2006年(平成18年)10月に宝物殿「鳳智松殿」が開館しました。
【寂光院の開基である聖徳太子】
聖徳太子は574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇と第29代・欽明天皇の第3皇女で、皇后・穴穂部間人の第2皇子として生まれました。幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。585年(用明天皇元年)に第30代・敏達天皇が崩御すると父・橘豊日皇子(第31代・用明天皇)が即位したが、 587年(用明天皇2年)に崩御しました。593年(崇峻天皇5年)に叔母で、史上初の女帝である第33代・推古天皇が即位すると皇太子・摂政になって補佐しました。聖徳太子は内政・外交などの政治に尽力し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階、604年(推古天皇12年)に十七条憲法を制定したり、607年(推古天皇15年)に遣隋使を派遣したりしました。また仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺(法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺)を創建したり、「三経義疏」を著したりして仏教の振興に尽くしました。聖徳太子は622年(推古天皇30年)に亡くなりました。
【寂光院の歴史 備考】
*参考・・・寂光院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
















