興聖寺ツツジ・サツキ見ごろ2025(5月中旬~6月上旬頃)
興聖寺ツツジ・サツキ見ごろ(時期・アクセス・概要)
興聖寺ツツジ・サツキ見ごろ(時期・イベント・・・)情報を紹介しています。興聖寺では境内各所にヒラドツツジなどのツツジ、山門(龍宮門)付近や本堂前の庭園にサツキが植えられ、ツツジ・サツキと境内・山門・本堂・鐘楼などの光景が美しいと言われています。興聖寺は関西花の寺二十五カ所霊場の第14番になっています。
(詳細下記参照)
【興聖寺ツツジ・サツキ見ごろ(例年時期)】
興聖寺のツツジ・サツキ見ごろはヒラドツツジが例年5月中旬頃、サツキが例年5月下旬頃から6月上旬頃です。ただツツジ・サツキ見ごろはその年の気候などによって多少前後することがあります。
京都ツツジ・サツキ名所・見ごろ
【興聖寺ツツジ・サツキ見ごろ アクセス・マップ】
場所・・・京都府宇治市宇治山田27
最寄り駅・バス停・・・京阪宇治駅(徒歩約10分)、JR宇治駅(徒歩約20分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅からはJR奈良線
*祇園四条駅からは京阪電鉄本線・宇治線
路線・時刻表・運賃チェック
【興聖寺 ツツジ・サツキ見ごろ(例年時期)・見どころ 簡単概要】
興聖寺はツツジ(躑躅)・サツキ(皐月)の名所です。興聖寺のツツジ・サツキ見ごろはヒラドツツジが例年5月中旬頃、サツキが例年5月下旬頃から6月上旬頃です。
興聖寺では境内各所にヒラドツツジなどのツツジ、山門(龍宮門)付近や本堂前の庭園にサツキが植えられ、ツツジ・サツキと境内・山門(龍宮門)・本堂などの光景が美しいと言われています。興聖寺は関西花の寺二十五カ所霊場の第14番になっています。
ヒラドツツジ(平戸躑躅)はツツジ科の常緑低木です。平戸は沖縄諸島原産のケラマツツジを主な親とし、西部日本原産のキシツツジ・沖縄諸島原産のリュウキュウツツジ・中部日本原産のモチツツジ・台湾原産のタイワンヤマツツジなどと自然交雑や実生を繰り返し、ヒラドツツジが生まれたと言われています。ヒラドツツジは樹高1~2メートルで、花冠が大きく、白・桃・紅・赤・朱・紫色など多彩な花を咲かせます。
サツキ(皐月・杜鵑)はツツジ科ツツジ属の常緑低木です。サツキの名称は旧暦の5月 (皐月) 頃に一斉に咲くことに由来しています。サツキは関東以西と九州南部に分布し、川岸の岩上などに自生しています。サツキは樹高が1メートル前後で、枝は細く密生して横に広がり、葉は披針形または狭倒披針形で先が尖っています。サツキは花色が深紅から白色で、咲き分け・絞り・八重咲などがあります。
本堂は1649年(慶安2年)に関白・豊臣秀吉が築城した伏見城の遺構を使って建立されたとも言われています。本堂は鴬張りの廊下・血天井・杉戸絵などが特徴となっています。
鐘楼は「興聖寺の晩鐘」として「宇治十二景」・「宇治十境」に数えられています。鐘楼は1651年(慶安4年)に建立され、1651年(慶安4年)に鋳造された梵鐘を釣っています。
【興聖寺 歴史・簡単概要】
興聖寺は1233年(天福元年)に曹洞宗の宗祖・道元禅師が曹洞宗の道場・観音導利院興聖宝林禅寺を深草(伏見区深草)に創建したのが起源と言われています。僧侶の教育・育生を目指す日本最初の修行道場で、「曹洞宗初開道場」と言われています。1236年(嘉禎2年)に「永平広録」によると伽藍が完成し、開堂式が行われました。その後延暦寺の弾圧を受け、1243年(寛元元年)に道元禅師が越前に下向して荒廃しました。1467年(応仁元年)に応仁の乱が起こり、4代住持で廃絶したと言われています。1645年(正保2年)に山城淀藩初代藩主で、永井家宗家2代・永井尚政が父・永井直勝の菩提を弔う為、萬安英種禅師を中興開山に招聘し、宇治旭茶園(朝日茶園)があった現在の場所に再興しました。関白・豊臣秀吉が築城した伏見城の遺構が使われました。1648年(慶安元年)に伏見城から移築・改築されて法堂が建立されました。伏見城では1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いの際、江戸幕府初代将軍・徳川家康の家臣・鳥居元忠ら数百名が石田三成に破れて自刃し、その血痕が残る廊下の板が天井に使われ、「血天井」とも言われています。1664年(寛文4年)に畿内の触頭寺院になりました。1747年(延享4年)に越前・永平寺の末寺になりました。
*参考・・・興聖寺(アクセス・歴史・・・)
【興聖寺ツツジ・サツキ見ごろ 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
興聖寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報