栖賢寺(拝観料・見どころ・アクセス・歴史概要・・・)
栖賢寺
栖賢寺(アクセス・見どころ・歴史概要・料金・・・)情報を紹介しています。栖賢寺は「摂津名所図会」によると豊臣秀吉が山崎の戦い(山崎合戦)の際、松に腰を掛けて軍令を定めと記されています。なお1582年(天正10年)山崎の戦いでは備中高松城から引き返した豊臣秀吉と織田信長を討った明智光秀が戦いました。
【栖賢寺 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市左京区上高野水車町22
最寄り駅・バス停・・・上橋(徒歩約8分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅からは17系統(C3乗り場)、18系統(C3乗り場)
*四条河原町からは16系統、17系統
京都バス・アクセスダイヤ
*叡山電鉄の場合、最寄り駅は三宅八幡駅(徒歩約20分)
【栖賢寺 拝観時間・時間(要確認)】
9:00~16:00
年中無休
【栖賢寺 拝観料金・料金(要確認)】
無料
【栖賢寺 歴史・簡単概要】
栖賢寺(せいけんじ)は南北朝時代(1337年~1392年)の康永年間(1342年~1345年)に大徳寺(だいとくじ)74世・竺堂円瞿(じくどうえんく)禅師(ぜんじ)が尼崎大物の地に創建しました。安土桃山時代(1573年~1603年)の1582年(天正10年)に行われた山崎の戦いの際、関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が軍議が開かれ、天下統一後に寺領を寄進されたと言われています。その後衰微し、笑嶺宗訴(しょうれいそうきん)が廣徳寺とともに中興しました。笑嶺宗訴は豊臣秀吉が大徳寺の塔頭(たっちゅう)・総見院(そうけんいん)で織田信長(おだのぶなが)の一周忌追善法要を行った際、導師を勤めたと言われています。江戸時代前期の元和年間(1615年~1624年)に尼崎城の築城により、大物町から寺町に移りました。その後無住になって荒廃し、1932年(昭和7年)に兵庫県尼崎市から現在の場所・左京区上高野に移りました。臨済宗方広寺派元管長・間宮英宗老師が実業家・山口玄洞(やまぐちげんどう)の寄進によって移転しました。
栖賢寺は臨済宗大徳寺派の寺院です。
*参考・・・栖賢寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia
【栖賢寺 見どころ・文化財(非公開の場合あり)】
【栖賢寺 連絡先(現在確認中)】*電話は控えて下さい。迷惑になります。
電話番号・・・+81-75-781-5027
【栖賢寺 備考(アクセス・御朱印・駐車場・・・)】
【栖賢寺 おすすめ散策ルート】
栖賢寺からのおすすめ散策ルートは北にある崇導神社に向かうルートです。20分ほど散策すれば、洛北の自然を感じながら崇道神社に行くことができ、京都観光・旅行を楽しむことができます。なお栖賢寺は市街地からかなり離れ、周辺にはあまり観光スポットが多くない為、次の観光スポットに向かい、その周辺を散策するのもいいかもしれません。