銀閣寺見所ランキング-修学旅行・観光で必見

銀閣寺見どころ(Ginkaku-ji Temple)

銀閣寺の国宝・重要文化財などの見所紹介

銀閣寺の見所ランキングを紹介します。見所は1位が足利義政が建て、心空殿・潮音閣からなる銀閣(国宝)、2位が足利義政が作庭した庭園(特別名勝・特別史跡)、3位が足利義政が建て、同仁斎がある東求堂(国宝)です。番外は銀沙灘・向月台です。(詳細下記参照)

銀閣寺見どころ一覧

【足利義政が建て、500年以上の歴史がある銀閣(国宝)の見所】

  • 概略-銀閣は室町時代(1336年~1573年)中期に室町幕府8代将軍・足利義政が建て、その後焼失などを免れたことから500年以上の歴史があります。銀閣は日光に照らされて外壁の黒漆(くろうるし)が銀色に輝いて見えることが名称由来の一説とされています。その為銀色に輝くを確認しながら拝観するのがおすすめです。また銀閣は池泉回遊式庭園との光景が美しいとされ、池泉回遊式庭園と一緒に拝観するのもおすすめです。なお銀閣は金閣寺の金閣・西本願寺の飛雲閣(ひうんかく)とともに京の三閣と言われています。また大徳寺(だいとくじ)の塔頭(たっちゅう)・芳春院(ほうしゅんいん)の呑湖閣(どんこかく)を加えて京の四閣、更に東福寺(とうふくじ)の開山堂昭堂の伝衣閣(でんねかく)を加えて京の五閣と言われています。
  • 歴史-銀閣は室町時代(1336年~1573年)中期の1489年(長享3年)に足利義政が建てました。足利義政は祖父・足利義満(あしかがよしみつ)が建てた金閣寺の金閣(舎利殿(しゃりでん))の二階・三階や苔寺(こけでら・西芳寺(さいほうじ))の瑠璃殿(るりでん)を参考にして建てたと言われています。足利義政は1485年(文明17年)・1487年(文明19年)など度々金閣寺を訪れ、金閣に上った記録が残されています。なお足利義政が建てた銀閣、足利義満が建てた金閣から足利将軍家では邸内に楼閣建築を設けるしきたりがあったと考えられています。その後江戸時代(1603年~1868年)に数度改修され、1913年(大正2年)に大規模な解体修理が行われました。なお銀閣は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定されました。
  • 構造-銀閣は二階建てで、一階が住宅風様式、二階が禅宗様式(唐様(からよう))です。銀閣は宝形造(ほうぎょうづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。一階が心空殿(しんくうでん)、二階が潮音閣(ちょうおんかく)と言われています。一階に板敷の仏間・六畳間・板敷の小室・吹き放しなどがあり、二階に内部に仕切りのない板敷の十六畳間があります。
  • 仏像-銀閣は錦鏡池(きんきょうち)の畔に建立された観音殿(かんのんでん)です。二階に洞中観音(どうちゅうかんのん)と言われる観音菩薩(かんのんぼさつ)坐像を安置しています。ちなみに観音菩薩は人々の救いを求める声を聞き、その苦悩から救済すると言われています。観音菩薩は救う相手の姿に応じて千変万化の相となると言われています。
  • 由来-銀閣が金閣に対し、銀閣と言われるようになったのは江戸時代(1603年~1868年)以降のことです。1658年(万治元年)刊行の「洛陽名所集(らくようめいしょしゅう)」に「銀閣寺」と記されているのが文献上の初例です。銀閣が銀閣と言われようになった理由には当初外壁に銀箔を貼る予定だったが、財政難や足利義政の死によってできなかったとも、外壁の黒漆が日光に照らされて銀色に輝いて見えたからとも言われています。
  • 調査-銀閣は2007年(平成19年)に行われた科学的調査により、外壁に一度も銀箔が張られていなかったことが分かりしました。また外壁・内壁に黒漆(くろうるし)、軒(のき)まわりの部材に色鮮やかな彩色文様があったことも分かりました。その後行われた修復工事では二階の内部に黒漆が塗られたが、外壁は現在の外観を維持することが基本とされました。
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【足利義政が作庭した庭園(特別名勝・特別史跡)の見所】

  • 概略-庭園は室町時代(1336年~1573年)中期に室町幕府8代将軍・足利義政が自らが苔寺の庭園を模して作庭した庭園が起源になっています。庭園は庭園そのものを拝観したりするだけでなく、銀閣と一緒に拝観することがおすすめです。また錦鏡池や名石・石橋に焦点を合わせて拝観するのもいいかもしれません。庭園は北・東・南側の三方を山に囲まれ、錦鏡池を中心とする池泉回遊式庭園です。錦鏡池近くには銀閣が建立されています。庭園は足利義政の浄土信仰(じょうどしんこう)・蓬莱神仙思想(ほうらいしんせんしそう)が表現されているとも言われています。庭園には白鶴島(はっかくとう)があり、守護大名・大内政弘(おおうちまさひろ)が献上したと言われている大内石・座禅石(ざぜんいし)などの名石や仙桂橋(せんけいきょう)・仙袖橋(せんしゅうきょう)などの石橋が配されています。ちなみに大内石・座禅石は東求堂の正面にあります。
  • 歴史-庭園は室町時代(1336年~1573年)中期に足利義政が女人禁制で、夢窓国師(むそうこくし)・夢窓疎石(むそうそせき)が作庭した苔寺(西芳寺)の庭園を母・日野重子(ひのしげこ)に見せる為に模して作庭したとも言われています。足利義政は自ら作庭を指揮し、様々な場所から庭石・植木などを取り寄せたと言われています。また庭園の作庭には足利義政が信頼していた河原者(かわらもの)・善阿弥(ぜんあみ)が関わったとも言われています。その後戦国時代(1493年~1590年)の1550年(天文19年)に室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)と三好長慶(みよしながよし)の兵火によって荒廃したと言われています。また織田信長(おだのぶなが)が足利義昭の為に二条城(にじょうじょう)を築城した際、名石・九山八海(くせんはっかい)石を庭園から移しました。江戸時代(1603年~1868年)前期の1615年(慶長20年)に宮城丹波守豊盛(みやぎたんごのかみとよもり)が大改修を行って、現在の姿の起源になりました。禅宗風の趣を取り入れて修復が行われたと言われています。なお庭園は1952年(昭和27年)3月29日に国の特別史跡・特別名勝に指定されました。
  • 豆知識-庭園はかつて漱蘚亭(そうせんてい)跡にあった枯山水庭園と上下二段の庭園だったと言われています。

【足利義政が建て、500年以上の歴史がある東求堂(国宝)の見所】

  • 概略-東求堂は室町時代(1336年~1573年)中期に室町幕府8代将軍・足利義政が建てました。東求堂は銀閣よりも先に建てられ、その後焼失などを免れたことから500年以上の歴史があります。東求堂は平屋(一階建て)であることなどから銀閣に比べると知名度が低く、見逃したり、印象に残らなかったりするかもしれません。ただ足利義政が書斎として使っていたことから足利義政を偲びながら拝観するのがおすすめです。なお銀閣寺では例年春と秋に「東山文化の原点 国宝東求堂」として特別公開を行っており、参加するのもいいかもしれません。
  • 歴史-東求堂は室町時代(1336年~1573年)中期の1486年(文明18年)に足利義政が建てました。東求堂は銀閣よりも少し前に建てられ、戦国時代(1493年~1590年)の足利義昭と三好長慶の兵火でも銀閣と同様に焼失を免れました。東求堂は元々、銀閣近くで、現在の向月台に建立されていたが、その後現在の場所に移されたと言われています。なお東求堂は1903年(明治36年)4月15日に国の重要文化財、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定されました。
  • 構造-東求堂は入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。1964年(昭和39年)に解体修理が行われ、こけら葺から檜皮葺に葺き替えられました。東求堂には四畳半の同仁斎(どうじんさい)・仏間・四畳間(脇の間)・六畳間(控室)などがあります。同仁斎には机である付書院(つけしょいん)と物を収納する違棚(ちがいだな)があります。同仁斎は日本最古の書院造(しょいんづくり)と言われています。
  • 仏像-東求堂は足利義政の持仏堂(じぶつどう)でした。東求堂は阿弥陀三尊(あみださんぞん)を本尊として安置する阿弥陀堂(あみだどう)として建てられました。東求堂は阿弥陀如来(あみだにょらい)立像や足利義政像を安置しています。足利義政像は1485年(文明17年)に足利義政が出家した頃の姿を写実的に表現していると言われています。東求堂は足利義政の持仏堂として建立されたが、その後足利義政が書斎として使いました。
  • 由来-東求堂・同仁斎の名称は相国寺(しょうこくじ)79世・横川景三(おうせんけいさん)が撰し、足利義政が選んだ「東方の人、念仏して西方に生ずるを求む(六祖壇経)」・「聖人は一視して同仁(韓愈)」に由来しています。
  • 豆知識-東求堂は大文字の送り火の起源になったとする説があります。1489年(長享3年)の近江の合戦中に足利義政の長子で、室町幕府9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)が24歳で亡くなりました。新盆に足利義尚の菩提を弔う為、如意ヶ岳(にょいがたけ)に「大」の文字を象って一斉に松割木に点火し、足利義尚の精霊を送りました。なお横川景三は東求堂から山面を望み、「大」の字形を定め、火床を掘らせたとも言われています。

【砂の銀沙灘(ぎんしゃだん)・向月台(こうげつだい)の見所】

  • 概略-銀沙灘・向月台はいつから造られるようになったかは明確ではありません。向月台がある場所にはかつて東求堂が建てられ、その後東求堂が移されました。銀沙灘・向月台は方丈前にあります。銀沙灘は砂を波形に高さ約35~40センチに盛り上げたものです。向月台は砂を高さ約1.8メートル・底部約3メートル・頂部約1.2メートルの富士山型(円錐(えんすい)型)に積み上げたものです。銀沙灘・向月台は月の光を反射させる為に造られたとも言われています。また銀沙灘は中国・杭州(こうしゅう)の世界遺産・西湖(せいこ)のさざ波をモデルにしているとも言われています。向月台は東山に昇る月を上に座って待っていたとも言われています。足利義政は「わが庵は 月待山の麓にて 傾むく空の 影をしぞ思う」と詠み、お月見(観月)を楽しんだと言われ、その歴史が受け継がれているのかもしれません。なお銀沙灘・向月台は原則1ヶ月に1度庭師が整形し、毎日早朝に整備されているそうです。
  • 歴史-銀沙灘・向月台は室町時代(1336年~1573年)まで遡ることはできないが、安土桃山時代(1573年~1603年) 以前から造られ、江戸時代の修復の際に拡大したとも言われています。また銀沙灘・向月台は江戸時代(1603年~1868年)に造られるようになったとも言われています。

【銀閣寺見所 備考】
*参考・・・銀閣寺(見所・アクセス・・・)ホームページ

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