第72代・白河天皇(しらかわてんのう)と葵祭
第72代・白河天皇と葵祭
第72代・白河天皇には令子内親王・禛子内親王・官子内親王がおり、それぞれが斎王に卜定されたこともあり、白河天皇は葵祭を見物した記録が多く残されています。白河天皇は斎王が鴨川で身を清める御禊・斎王が上賀茂神社から賀茂斎院(紫野斎院)に戻る還立を見物しました。
【葵祭日程2026(要確認)】
葵祭2026ではハイライトである路頭の儀が2026年(令和8年)5月15日(金曜日)に行われます。(悪天候の場合、翌16日に順延)なお葵祭では例年5月1日から主な前儀・後儀が行われます。
葵祭2026日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
●葵祭・路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などの時代行列が巡行します。
葵祭路頭の儀2026
【葵祭 歴史・簡単概要】
葵祭(あおいまつり)は古墳時代後期の第29代・欽明天皇の時代(539年~571年)に京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りを行ったことが起源です。その後819年(弘仁10年)に律令制度の中で最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行われる国家的行事になり、平安時代中期に祭りと言えば、葵祭のことをさすほど隆盛を極めました。
葵祭歴史年表・由来
【第72代・白河天皇(しらかわてんのう)】
第72代・白河天皇には第3皇女・令子内親王(れいしないしんのう)、第4皇女・禛子内親王(しんしないしんのう)、第5皇女・官子内親王(かんしないしんのう・きみこないしんのう・たかこないしんのう)がおり、それぞれが葵祭に奉仕する斎王(斎院)に卜定されたこともあり、白河天皇には葵祭を見物した記録が多く残されています。白河天皇は第24代斎王・令子内親王に伴う1090年(寛治4年)4月9日の御禊(ぎょけい)・1092年(寛治6年)4月18日の御禊と同年4月22日の還立(かえりだ)、1094年(嘉保元年)4月12日の御禊と同年4月16日の還立・1095年(嘉保2年)4月17日の御禊と同年4月21日の還立・1096年(永長元年)4月11日の御禊、第25代斎王・禛子内親王に伴う1107年(嘉承2年)4月18日の還立、第26代斎王・官子内親王に伴う1111年(天永2年)4月18日の還立・1118年(元永元年)4月18日の御禊と同年4月22日の還立を見物しました。御禊は葵祭に先立って斎王が鴨川で身を清めるものです。還立は斎王が上賀茂神社から賀茂斎院(かもさいいん・紫野斎院(しのさいいん))に戻るものです。
「後二条師通記(ごにじょうもろみちき)」1088年(寛治2年)4月21日の条に「雨降、巳剋許天晴之、院(白河上皇)御見物也、攝政殿(藤原師実)・大臣以下騎馬也、無口取云々、直衣衣冠、有平張也」、「中右記(ちゅうゆうき)」1088年(寛治2年)4月21日の条に「賀茂祭(葵祭)、使(源)顯雅、院(白河上皇)御見物」、「扶桑略記(ふそうりゃくき)」1088年(寛治2年)4月21日の条に「太上天皇(白河上皇)御覽賀茂祭(葵祭)」と記され、天候が回復し、白河上皇(第72代・白河天皇)が葵祭を見物したことが分かります。勅使が源顯雅で、摂政・藤原師実らが騎馬で巡行しました。
「中右記(ちゅうゆうき)」1090年(寛治4年)4月9日の件「斎王(令子内親王)初度御禊也、禊東河(鴨川)、入御大膳職也、御所近衛万利小路前越前守(源)高實朝臣宅也、其道自近衛御門大路、經洞院東大路并二條、便以二條末爲御禊所也、(中略)先是(白河)上皇有御見物、二條東洞院辻也、庇御車、(御車副八人)北面立之、其西立輕幄、爲前駈上卿并侍臣座」と記され、父・白河上皇が娘・令子内親王の初度御禊(ぎょけい)を見物したことが分かります。令子内親王が鴨川で禊(みそぎ)を行い、白河上皇が二条東洞院の辻で見物しました。斎王の行列は近衛大路の門から出発し、洞院東大路・二条を通りました。白河上皇は御車を庇(ひさし)で覆い、お伴の車副8人を北面に置き、その西側に軽い幕を張って上卿・侍臣の座にしました。
「中右記」1129年(大治4年)4月26日の件「天晴、齋王還本院(賀茂斎院)給、先從新院(鳥羽上皇)被奉夏扇、使兵衞佐公行給祿、(女裝束)巳時許三院(白河法皇、鳥羽上皇、待賢門院)御幸社神館邊、乍御車御覽、次立御車於知足院殿大門前、有御見物、殿下(摂政藤原忠通)御車、内大臣(源有仁)以下騎馬」と記され、白河法皇が自ら養育した孫の鳥羽上皇と養女としていた鳥羽上皇の中宮・待賢門院(藤原璋子)とともに斎王の還立を見物しました。白河法皇・鳥羽上皇・待賢門院の3人は同年4月19日の御禊や同年4月25日の葵祭も見物しました。白河天皇は同年7月24日に崩御したことから最後の葵祭見物になりました。
●白河天皇は1053年(天喜元年)に後三条天皇と藤原茂子の間に生まれ、後三条天皇の第1皇子でした。幼い頃に母と外祖父・藤原能信が亡くなると父が関白・藤原頼通から冷遇されました。1065年(治暦元年)に元服し、1068年(治暦4年)に父が即位すると親王宣下を受け、1069年(延久元年)に立太子されました。1071年(延久同3年)に関白・藤原師実の養女・藤原賢子が入内しました。1072年(延久4年)に父から譲位されて即位しました。父とその母・陽明門院が異母弟・実仁親王とその同母弟・輔仁親王に皇位を継がせようとしたが、1085年(応徳2年)に実仁親王が亡くなると1086年(応徳3年)に輔仁親王ではなく、実子・善仁親王を立太子し、即日譲位して堀河天皇に即位させました。その後関白・藤原師実と協調しながら堀河天皇を後見する為に院政を開始しました。また仏教に傾倒し、1096年(永長元年)に鍾愛する第1皇女・郁芳門院が亡くなると出家し、法勝寺を創建しました。1107年(嘉承2年)に堀河天皇が崩御すると母が若くして亡くなり、養育していた孫を鳥羽天皇に即位され、更に鳥羽天皇に譲位させて曽孫を崇徳天皇を即位させました。白河天皇は子・堀河天皇、孫・鳥羽天皇、曽孫・崇徳天皇の3代・43年間に渡って院政を行ないました。なお白河天皇は1129年(大治4年)に崩御しました。
【第72代・白河天皇と葵祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭路頭の儀(京都御所~下鴨神社~上賀茂神社)












