嵐山城・香西元長(こうざいもとなが)と嵐山
嵐山城・香西元長と嵐山
嵐山は桜名所・紅葉名所だけでなく、山頂に嵐山城が築城されていた場所でもありました。嵐山城は室町時代中期に勃発した応仁の乱後の1497年(明応6年)に山城国守護代・細川正元の家臣で、山城国半国守護代・香西元長が築城したと言われています。
【嵐山桜見ごろ(例年時期)・2024年開花満開予想】
嵐山の桜見ごろは例年3月下旬頃から4月上旬頃です。ただ桜の開花状況や見ごろ(満開)はその年の気候などによって多少前後することがあります。なお2025年3月6日、ウェザーマップは桜の開花・満開が平年並で、京都で3月26日に開花、4月3日に満開になると予想しました。
嵐山桜見ごろ
【嵐山 歴史・簡単概要】
嵐山は淀川水系の一級河川・桂川に架かる渡月橋の西、京都府京都市西京区にある標高約382メートルの山です。嵐山は国の史跡・国の名勝に指定されています。また嵐山は「日本さくら名所100選」・「日本の紅葉の名所100選」にも選ばれています。嵐山は平安時代に貴族の別荘地で、古くから歌枕として多くの和歌などに詠まれる景勝地でした。なお嵐山と言う場合、山自体ではなく、桂川の右岸・嵐山と桂川の左岸・嵯峨野を含めたエリアを指し、京都を代表する観光地になっています。
【嵐山城・香西元長(こうざいもとなが)】
嵐山は桜名所・紅葉名所だけでなく、標高約382メートルの嵐山山頂(京都府京都市西京区嵐山元禄山町)に嵐山城が築城されていた場所でもありました。京都では室町時代(1336年~1573年)中期に細川勝元(ほそかわかつもと)を東軍総大将、山名宗全(やまなそうぜん)を西軍総大将として、約10年にわたって戦われた応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、嵐山城は応仁の乱後の1497年(明応6年)に山城国守護代・細川正元(ほそかわまさもと)の家臣で、山城国半国守護代・香西元長(こうざいもとなが)が築城したと言われています。嵐山城は嵯峨城とも言われ、嵐山や松尾だけでなく、京都の中心部を遠望することができます。洛西(西京区)には十数か所の城郭が築かれ、嵐山城は峰ヶ堂城(みねがどうじょう)とともに比較的規模が大きい城郭で、幅100メートルの曲輪(くるわ)がありました。嵐山城は戦国時代(1493年~1590年)の永正年間(1504年~1521年)頃から本格的に使用されるようになり、1505年(永正2年)に香西元長が山城国中に臨時の半済を課し、一乗寺・高尾などに放火した際、香西元長と室町幕府管領・細川政元が対立し、香西元長は嵐山城に逃げ込んだと言われています。1507年(永正4年)に細川政元の後継を巡る細川澄之と細川澄元による家督争いの際、香西元長は細川澄之を支持し、嵐山城に籠城する準備を始めました。1507年(永正4年)9月7日に香西元長は細川氏の家督争いで戦死し、その後嵐山城の資料は残されていないが、細川晴元らが使用したと言われています。なお嵐山山頂から桂川までの山腹、標高120メートルの尾根上に城跡が確認され、嵐山城の出城とも言われています。
●香西元長は香西元直の子として生れました。ただ生年は明確ではありません。香西氏は細川氏の家臣(内衆)で、讃岐国香川郡香西(高松市香西町)を本拠としていたが、父の時代頃から京都に詰めるようになり、讃岐国の領地は父の弟が継承しました。1497年(明応6年)に山城下郡守護代に任じられ、同年に南山城で鷹狩りが行われた際に郷民らに包囲されたが、主君・細川政元に救出されました。1504年(永正元年)に細川氏の家臣・薬師寺元一が細川政元を排し、その子・細川澄元を擁立する為に謀反を起こした際、薬師寺元一の弟・薬師寺長忠とともに薬師寺元一の居城・淀古城を攻撃しました。1507年(永正4年)に細川政元が丹波国に出陣した際、役銭の供出を拒否した賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)を焼き討ちしました。細川政元の後継者争いの際、細川澄之を支持し、薬師寺長忠・竹田孫七らと細川政元を暗殺し、細川澄之を当主としました。また対立候補だった細川澄元を伊賀国に追いやったが、細川澄元・細川高国らの反撃され、細川澄之邸の遊初軒で細川澄之・薬師寺長忠とともに戦死しました。
【嵐山城・香西元長と嵐山】
*京都には多くの桜名所があり、その桜見ごろを下記リンクから確認できます。
京都桜見ごろ2025(清水寺・哲学の道・原谷苑・・・)