福王子神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

福王子神社の歴史を時代別年表にまとめ
福王子神社の歴史を簡単にまとめています。福王子神社は平安時代中期の「延喜式神名帳」に記されている「深川神社」が起源と言われ、平安時代中期には既に祀られていた言われています。この地の産土神だったと言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)
【丹波国の氷室】
●平安時代に丹波国の氷室では宮中に氷を献上する習わしがありました。氷の運搬では亡くなる役夫もおり、役夫の霊を祀り、安全を祈願する末社・夫荒社(ふこうしゃ・松尾大明神(まつおだいみょうじん))が祀られています。福王子神社は周山街道(国道162号線)ときぬかけの路が交差する交差点近くに祀られています。
【福王子神社の起源・始まり】
●福王子神社は平安時代(794年~1185年)中期の「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に記されている「深川神社(ふかがわじんじゃ)」が起源と言われ、平安時代中期には既に祀られていた言われています。深川神社はこの地(東紙屋川・西広沢・大沢池畔・嵯峨野・南三条)の産土神(うぶすながみ)だったと言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
●886年(仁和2年)に第58代・光孝天皇(こうこうてんのう)が西山御願寺(にしやまごがんじ)を大内山の麓に創建することを発願し、仁和寺の起源になりました。ただ翌887年(仁和3年)に光孝天皇が崩御し、888年(仁和4年)に光孝天皇の皇子で、第59代・宇多天皇(うだてんのう)が父・光孝天皇の遺志を引き継いで仁和寺を創建しました。当初、西山御願寺と言われていたが、年号「仁和」から年号寺・仁和寺になりました。福王子神社は仁和寺の守護神になったと言われています。
●900年(昌泰3年)に光孝天皇の皇后で、宇多天皇の生母・班子女王(はんしじょうおう・なかこじょうおう)が亡くなり、頭陀寺(づだじ)近くに班子女王の陵墓が造営されました。福王子神社は福王神・福王子宮とも言われたそうです。福王子神社は社名は班子女王の陵墓が近くあり、班子女王が多くの皇子・皇女を生んだことに由来しています。
●平安時代中期から鎌倉時代初期に歴代仁和寺住職(門跡)から篤く崇敬されました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
●1467年(応仁元年)に応仁の乱(おうにんのらん)が起こり、兵火で焼失しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●1644年(寛永21年)に第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の第1皇子で、仁和寺(にんなじ)21世・覚深入道親王(かくしんにゅうどうしんのう)が江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の寄進により、仁和寺とともに社殿を再建しました。1634年(寛永11年)に覚深入道親王が京都に上洛していた徳川家光に仁和寺再興を申し入れ、承諾されていました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●1973年(昭和48年)3月に本殿・拝殿・鳥居が重要文化財に指定されました。
【福王子神社の祭神である班子女王】
班子女王は833年(天長10年)は第50代・桓武天皇の皇子・仲野親王と母・当宗氏女の娘として生まれました。その後時康親王(第58代・光孝天皇)の妃になり、是忠親王・是貞親王・定省親王(第59代・宇多天皇)・源元長・忠子内親王、簡子内親王・綏子内親王・為子内親王ら4男4女を産みました。884年(元慶8年)に夫が光孝天皇に即位すると同年4月に従三位・女御になりました。右大臣・藤原基経の異母妹で、尚侍・藤原淑子と親しかったことから定省王を藤原淑子の猶子になり、夫の天皇即位の一因になったとも言われています。887年(仁和3年)に源定省(定省親王)が宇多天皇に即位すると同年11月に皇太夫人になり、897年(寛平9年)7月に孫・源維城が醍醐天皇の即位すると皇太后になりました。班子女王は山城国に浄福寺を建立し、寛平御時后宮歌合を催しました。なお班子女王は900年(昌泰3年)5月2日に68歳で亡くなりました。
【福王子神社の歴史 備考】
*参考・・・福王子神社wikipedia














