乃木神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

乃木神社の歴史を時代別年表にまとめ

乃木神社の歴史を簡単にまとめています。乃木神社は1916年(大正5年)に実業家・村野山人が第122代・明治天皇に殉死した陸軍大将・乃木希典を祀る為に創建しました。1919年(大正8年)に本殿脇に摂社・静魂神社が創建されました。(時代別年表・重要人物下記参照)

乃木神社(アクセス・歴史・・・)

【第122代・明治天皇】

●第122代・明治天皇は1852年(嘉永5年)11月3日に第121代・孝明天皇(こうめいてんのう)と典侍(ないしのすけ)・中山慶子(なかやまよしこ)の間に第2皇子として生まれました。1860年(万延元年)8月に皇太子になり、同年11月に親王宣下を受けました。1867年(慶応2年)に父が崩御すると14歳で天皇に即位しました。同年に朝廷は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)からの大政奉還(たいせいほうかん)の上表に勅許を与え、薩摩藩・長州藩に討幕の密勅を下しました。その後王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)を発して新政府樹立が宣言され、1868年(慶応4年)に始まった戊辰戦争(ぼしんせんそう)で幕府勢力を鎮圧しました。1868年(明治元年)に五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)を発布し、「明治」に年号を改元して一世一元の制(いっせいいちげんのせい)を定めました。1869年(明治2年)に東京に遷都し、版籍奉還(はんせきほうかん)の上表を勅許し、1871年(明治4年)に廃藩置県(はいはんちけん)を断行しました。1882年(明治15年)に陸海軍を天皇の軍隊と規定し、軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)を発しました。1884年(明治17年)以降に立憲制・官僚制に対応する諸体系を整備し、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法を公布しました。1894年(明治27年)からの日清戦争(にっしんせんそう)、1904年(明治37年)からの日露戦争(にちろせんそう)では直接戦争を指導しました。なお第122代・明治天皇は1912年(明治45年)7月30日に崩御しました。明治天皇は「朕が百年の後は必ず陵を伏見に営むべし」との遺志により、京都伏見桃山に御陵が定められました。
●1912年(大正元年)9月13日に明治天皇の大喪の儀(たいそうのぎ)が東京青山葬場殿で行われました。軍事参議官兼学習院長陸軍大将・乃木希典(のぎまれすけ)は妻・静子とともに東京赤坂の屋敷で皇居に正対端座して自刃しました。乃木希典は「うつし世を 神去りましし 大君の 御あと慕ひて 我は逝くなり」・「神あがり あがりましぬる 大君の みあとはるかに をろがみまつる」、乃木静子は「出でまして かへります 日のなしとき くけふの御幸に 逢ふぞかなしき」の辞世の句を残しました。なお乃木希典・静子夫妻が自刃した邸宅の隣地には乃木神社 (東京都港区赤坂)が創建されています。
●乃木神社が建立されている場所は桃山時代から江戸時代初期の1595年(文禄4年)~1615年(慶長20年)に板倉周防守(いたくらすおうのかみ)の屋敷があった場所です。「板倉周防」の地名が残されています。

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【乃木神社の起源・始まり】

●乃木神社は1916年(大正5年)9月に実業家・村野山人(むらのさんじん)が明治天皇に殉死した陸軍大将・乃木希典(のぎまれすけ)を乃木希典大人之命(のぎまれすけうしのみこと)として祀る為に創建しました。村野山人は伏見桃山御陵で行われた埋柩の儀に参列し、殉死した乃木希典・静子夫妻の忠義に感銘を受け、「乃木夫妻の殉死一年後には会社を辞め、全財産を投じて明治天皇の墓所である伏見桃山陵の傍らに乃木希典大将と静子夫人を祀り、御遺徳を仰ぎ尊び、その赤心を永く後の世に伝えん」との決意をしました。なお乃木神社は元々、皇室の御料地(ごりょうち)だったが、村野山人・乃木神社建立を熱願した政財界人や軍人などの尽力や政府の理解により、乃木神社の建立が特別に許されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●1919年(大正8年)に本殿脇に摂社・静魂神社が創建されました。
●2006年(平成18年)の乃木神社創建90周年の際、本殿が改修され、乃木静子刀自之命(のぎしずことじのみこと)は本殿に遷されました。

【乃木神社の祭神である乃木希典】

乃木希典は1849年(嘉永2年)12月25日に長州藩士・乃木希次と寿子の三男として江戸藩邸で生まれました。1864年(元治元年)から長州藩の藩校・明倫館で学び、1865年(元治2年)に報国隊に属し、第二次長州征討で従軍しました。1868年(慶応4年)に始まった戊辰戦争では東北を転戦しました。明治維新後にフランス式軍事教育を受け、1871年(明治4年)に陸軍少佐になりました。1877年(明治10年)に始まっ西南戦争では歩兵14連隊長として出陣し、西郷軍に軍旗を奪われて自決を決意したが、思い留まりました。1886年(明治19年)11月にドイツに留学し、翌1887年(明治20年)6月に帰国し、その後近衛歩兵第2旅団長などを歴任しました。1894年(明治27年)に始まった日清戦争では第2軍に属し、戦争末期に第2師団長になり、台湾に進駐し、1896年(明治29年)に第3代台湾総督になりました。1904年(明治37年)に始まった日露戦争では第3軍司令官になり、陸軍大将に昇進し、旅順を苦戦の末に攻略しました。同年5月に長男・勝典、11月に次男・保典が戦死しました。凱旋後に軍事参議官になり、1907年(明治40年)に学習院長を兼任し、伯爵に陞爵しました。なお乃木希典は1912年(大正元年)9月13日に行われた明治天皇の大喪の儀当日に妻・静子とともに自刃しました。
乃木静子は1859年(安政6年)11月29日に鹿児島藩医・湯地定之と貞子の四女として生まれました。1872年(明治5年)に海外留学から帰国した長兄・湯地定基に呼び寄せられ、一家で東京赤坂溜池に転居しました。麹町女学校を卒業し、その後陸軍軍人・伊地知幸介らの勧めにより、乃木希典と結婚しました。4人の子供に恵まれるが、長男・勝典、次男・保典以外の子供(長女・恒子、三男・直典)は生後間もなく夭折しました。ただ勝典・保典も1904年(明治37年)に戦死しました。全ての子供を先に亡くし、晩年は盆栽などを楽しんだと言われています。なお乃木静子は1912年(大正元年)9月13日に行われた明治天皇の大喪の儀当日に夫・希典とともに自刃しました。

【乃木神社の歴史 備考】
*参考・・・乃木神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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