後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう))と嵐山
後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)と嵐山
嵐山は古くから紅葉名所とされ、歌枕として多くの和歌に詠まれました。その後鎌倉時代(1185年~1333年)前期の1255年(建長7年)に後嵯峨上皇が天龍寺が建立されている場所に離宮・亀山殿を造営した際、吉野山から数百株の桜を移植し、桜名所の起源になりました。
【嵐山桜見ごろ(例年時期)・2024年開花満開予想】
嵐山の桜見ごろは例年3月下旬頃から4月上旬頃です。ただ桜の開花状況や見ごろ(満開)はその年の気候などによって多少前後することがあります。なお2025年1月9日、ウェザーニュースは京都嵐山で3月28日にソメイヨシノが開花すると予想しました。
嵐山桜見ごろ
【嵐山 歴史・簡単概要】
嵐山は淀川水系の一級河川・桂川に架かる渡月橋の西、京都府京都市西京区にある標高約382メートルの山です。嵐山は国の史跡・国の名勝に指定されています。また嵐山は「日本さくら名所100選」・「日本の紅葉の名所100選」にも選ばれています。嵐山は平安時代に貴族の別荘地で、古くから歌枕として多くの和歌などに詠まれる景勝地でした。なお嵐山と言う場合、山自体ではなく、桂川の右岸・嵐山と桂川の左岸・嵯峨野を含めたエリアを指し、京都を代表する観光地になっています。
【後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう))】
嵐山は古くから紅葉名所とされ、モミジなどが風に舞い散らされる様子から嵐山と名付けられたと言われています。白河上皇(第72代・白河天皇(しらかわてんのう))は「大井川 ふるき流れを たづねきて 嵐の山の もみぢをぞ見る」、「小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)」の撰者・藤原定家(ふじわらのていか)は「吹きはらふ 紅葉のうへの 霧はれて 峯たしかなる 嵐山かな」と詠み、嵐山は古くから歌枕として多くの和歌に詠まれました。その後鎌倉時代(1185年~1333年)前期の1255年(建長7年)に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)が現在天龍寺(てんりゅうじ)が建立されている場所に離宮・亀山殿(かめやまどの)を造営した際、「日本さくら名所100選」に選ばれている奈良・吉野山(よしのやま)から数百株の桜を嵐山に移植し、離宮・亀山殿から桜を愛でたと言われています。その後も吉野山から桜の木が移植され、移植された桜の木は現在も残されているそうです。後嵯峨上皇は嵐山が「日本さくら名所100選」に選ばれ、京都を代表する桜名所の起源になりました。
吉野山では飛鳥時代に修験道(しゅげんどう)の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)・役小角(えんのおづの)が修行中に蔵王権現(ざおうごんげん)を感得し、衆生を救う為に桜の木に刻み、山上ヶ岳(大峰山寺(おおみねさんじ))と吉野山(金峯山寺(きんぷせんじ))に祀りました。桜の木は蔵王権現の神木とされ、蔵王権現に祈願する際には桜の苗木を寄進することが風習になり、平安時代頃から桜の木がたくさん植えられるようになりました。
離宮・亀山殿は第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)の后・檀林皇后(だんりんこうごう・橘嘉智子)が創建した禅寺・檀林寺があった場所で、後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)が仙洞御所(せんとうごしょ)を造営し、亀山上皇(第90代・亀山天皇)が仮の御所を営みました。
●第88代・後嵯峨天皇は1220年(承久2年)4月1日に第83代・土御門天皇と源通宗(土御門通宗)の娘・源通子の間に邦仁王として生まれ、土御門天皇の第2皇子でした。1221年(承久3年)に鎌倉幕府2代執権・北条義時の追討を謀った承久の乱が起こり、父・土御門天皇が四国土佐に流されると源通方(中院通方)・土御門定通・承明門院源在子のもとで育てられました。土御門家が没落し、20歳を過ぎても出家や元服ができなかったが、1242年(仁治3年)に第87代・四条天皇が12歳で崩御し、北条氏と縁戚関係と鎌倉・鶴岡八幡宮の託宣により、第88代・後嵯峨天皇に即位しました。その後関白を近衛兼経から二条良実に交替させ、西園寺実氏の娘・西園寺きつ子(大宮院)を中宮として、実力者の西園寺家と婚姻関係を結ぶことで立場の安定化させました。1246年(寛元4年)に皇子・久仁親王(第89代・後深草天皇)に譲位し、姉小路顕朝・中御門経任らの側近を登用して院政を開始しました。1259年(正元元年)に後深草天皇に対し、実弟である皇子・恒仁親王(第90代・亀山天皇)への譲位を促しました。1268年(文永5年)に出家して法皇になり、大覚寺に移りました。後嵯峨天皇は鎌倉幕府の意向を重視し、要請に応じて皇子・宗尊親王を最初の宮将軍(鎌倉幕府6代将軍)とさせました。また後嵯峨天皇は崩御に先立って御書を鎌倉幕府に遣わし、将来の皇位を持明院統(後深草天皇系)・大覚寺統(亀山天皇系)のいずれとも定めず、鎌倉幕府の推挙にまかせるとの旨を伝えたことから持明院統・大覚寺統の対立の一因になりました。なお第88代・後嵯峨天皇は1272年(文永9年)3月17日に崩御しました。嵐山にある天竜寺内の嵯峨南陵が陵所になっています。
【後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)と嵐山】
*京都には多くの桜名所があり、その桜見ごろを下記リンクから確認できます。
京都桜見ごろ2025(清水寺・哲学の道・原谷苑・・・)