方広寺(拝観料・見どころ・アクセス・歴史概要・・・)
方広寺
方広寺(アクセス・見どころ・歴史概要・料金・・・)情報を紹介しています。方広寺、そして南側にある豊国神社・国立博物館の西側に連なっている石垣はかつての方広寺大仏殿の石垣でした。また更に南側にある三十三間堂の太閤塀や南大門も方広寺造営の一環として整備されたものです。
【方広寺 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2
最寄り駅・バス停・・・博物館・三十三間堂前(徒歩約5分)、東山七条(徒歩約7分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から方広寺は100系統(D1乗り場)、110系統(D1乗り場)、206系統(D2乗り場)、208系統(D2乗り場)
*四条河原町からは207系統
*四条烏丸からは207系統
*河原町丸太町からは202系統
路線・時刻表・運賃チェック
*京阪電鉄本線の場合、最寄り駅は七条駅(徒歩約5分)
【方広寺 拝観時間・時間(要確認)】
9:00~16:00
【方広寺 拝観料金・料金(要確認)】
本堂・・・大人200円、中学生以下100円
【方広寺 歴史・簡単概要】
方広寺(ほうこうじ)は安土桃山時代の1586年(天正14年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大和国の戦国大名・松永久秀(まつながひさひで・松永弾正(まつながだんじょう))の焼き討ちによって焼損した奈良・東大寺(とうだいじ)の大仏に代わる大仏(盧舎那仏(るしゃなぶつ))の造立を発願したのが起源です。大仏の造立は当初遣迎院(けんこういん)付近だったが、その後佛光寺(ぶっこうじ)が建立されていた三十三間堂北側に変更されました。大仏の造立には刀狩りで没収した武器を利用し、大仏の大きさは東大寺の大仏よりも大きい6丈3尺(約19メートル)だったと言われています。1595年(文禄4年)に方広寺が完成したが、翌1596年(文禄5年)の慶長伏見地震によって大仏は倒壊しました。豊臣秀吉は「自らの身をも守れないのか」と激怒したとも言われています。その後大仏の代わって善光寺(ぜんこうじ)の善光寺如来(阿弥陀三尊)を移したが、豊臣秀吉が病に臥したのは善光寺如来の祟りではないかとされ、1597年(慶長2年)8月17日に善光寺如来は戻されることになったが、翌8月18日に豊臣秀吉が亡くなりました。江戸時代前期の1612年(慶長17年)に豊臣秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が大仏殿と大仏を完成させました。1614年(慶長19年)に「国家安康」・「君臣豊楽」の銘文を刻んだ梵鐘が完成するが、銘文が江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の「家」と「康」を分断し、豊臣を「君主」とするものとして、方広寺鐘銘事件になり、豊臣家滅亡の発端になりました。1662年(寛文2年)の地震で大仏が大破し、1798年(寛政10年)の落雷で大仏殿と木造で再興され大仏が焼失しました。
方広寺は天台宗の寺院です。
*参考・・・方広寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia
【方広寺 見どころ・文化財(非公開の場合あり)】
方広寺の見どころは国家安康の梵鐘です。梵鐘は京都三条釜座の名古屋(名越)三昌によって鋳造され、東大寺・知恩院の梵鐘と合わせ、日本三釣鐘と言われています。
重要文化財・・・梵鐘
【方広寺 連絡先(現在確認中)】*電話は控えて下さい。迷惑になります。
電話番号・・・+81-75-561-1720
【方広寺 備考(アクセス・御朱印・駐車場・・・)】
【方広寺 おすすめ散策ルート】
方広寺からのおすすめ散策ルートは南側にあるJRの線路を越え、京都五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・万寿寺)のひとつ京都・東福寺に向かうルートです。東福寺の周辺には泉涌寺などもあり、京都観光・旅行を楽しむことができます。なお方広寺の周辺には豊国神社・三十三間堂・智積院・妙法院・国立博物館などもあり、それらを散策してから東福寺に向かうといいかもしれません。