新熊野神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

新熊野神社

新熊野神社の歴史を時代別年表にまとめ

新熊野神社の歴史を簡単にまとめています。新熊野神社は1160年(永暦元年)に後白河上皇が離宮・法住寺殿を造営した際、平清盛・平重盛父子に命じ、紀州・熊野三山の熊野権現を鎮守社として勧請したのが起源と言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)

新熊野神社(アクセス・歴史・・・)

【離宮・法住寺殿】

●離宮・法住寺殿(ほうじゅうじどの)は1156年(保元元年)に第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう)が方違い(かたたがい)の為に造営したと言われています。その後1160年(永暦元年)に後白河上皇が住し、蓮華王院御所(れんげおういんごしょ)と言われました。なお後白河天皇は1155年(久寿2年)に即位したが、1158年(保元3年)に僅か3年で第78代・二条天皇(にじょうてんのう)に譲位して院政を開始しました。

【新熊野神社の起源・始まり】

●新熊野神社は1160年(永暦元年)に34回も熊野詣(くまのもうで)を行った後白河上皇が院の御所である離宮・法住寺殿を造営した際、平清盛(たいらのきよもり)・平重盛(たいらのしげもり)父子に命じ、紀州(和歌山)・熊野三山の熊野権現(くまのごんげん)を鎮守社として勧請したのが起源と言われています。新熊野神社は熊野の新宮・別宮として創建されました。新熊野神社は熊野の土砂・材木などを使って、社域が造成され、社殿が建立され、那智(なち)の浜の小石が撒かれ、熊野が再現されたと言われています。後白河上皇は樹齢約900年・高さ約21メートル・周囲約6メートルとも言われる大樟(おおくす・京都市の天然記念物)を熊野から移植し、お手植したと言われています。法住寺殿では1160年(永暦元年)に新日吉神宮(いまひえじんぐう)が鎮守社、1165年(長寛2年)に蓮華王院(三十三間堂(さんじゅうさんげんどう))が鎮守寺として創建されました。新熊野神社は熊野神社(くまのじんじゃ)・熊野若王子神社(くまのにゃくおうじじんじゃ)とともに京の熊野三山に数えられました。新熊野神社は熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)、熊野神社は熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)、熊野若王子神社は熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)に対応しています。なお「新熊野」を「いまくまの」と読むのは紀州の古い熊野に対し、京の新しい熊野という都人の認識が由来となっているそうです。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●平安時代後期以降に新熊野神社は京の熊野信仰の中心地として栄え、その後350年間にわたって繁栄を極めたと言われています。
●平安時代後期に平清盛(たいらのきよもり)の娘で、第80代・高倉天皇(たかくらてんのう)の中宮、そして第81代・安徳天皇(あんとくてんのう)の生母となる建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)の為に安産を祈願し、その後安産の神様として信仰されるようになりました。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

●1375年(文中4年・永和元年)にこの地で猿楽師(さるがくし)である観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子が室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の前で猿楽能(新熊野神事猿楽)を舞ったことから「能楽発祥の地」とされています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

●1467年(応仁元年)に応仁の乱(おうにんのらん)が起こり、兵火によって荒廃し、一時廃絶に近い状態になったと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●江戸時代初期に第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮・東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ))が再建しました。
●1663年(寛文13年)に後水尾上皇の皇子・聖護院宮道寛親王が現在の本殿(京都市指定有形文化財)を再建しました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、社僧が廃されました。
●1906年(明治39年)に東山通が開通した際に境内が縮小されました。
●1980年(昭和55年)3月17日に今上天皇が参拝した際に樹齢20年の梛の木を植樹しました。
●2015年(平成27年)頃に神社本教から離れ、単立の神社になりました。

【新熊野神社を創建した第77代・後白河天皇】

第77代・後白河天皇は1127年(大治2年)に第74代・鳥羽天皇と中宮・藤原璋子の第4皇子として生まれました。親王宣下を受けて「雅仁」と命名され、1139年(保延5年)に元服して二品に叙せられました。1129年(大治4年)に曽祖父・白河法皇(第72代・白河天皇)が崩御すると父が院政を開始し、藤原得子を寵愛したことから第75代・崇徳天皇に譲位を迫り、1142年(永治元年)に父と藤原得子の子・体仁親王が第76代・近衛天皇に即位したが、1155年(久寿2年)に近衛天皇が崩御すると藤原得子の養子となっていた後白河天皇の第1皇子・守仁親王(第78代・二条天皇) が即位するまでの中継ぎとして、立太子を経ないまま29歳で後白河天皇に即位しました。後白河天皇は皇位継承がもとで起こった保元の乱で勝利したが、1158年(保元3年)に在位僅か3年で皇太子・守仁親王(二条天皇) に譲位し、二条天皇、第79代・六条天皇、第80代・高倉天皇、第81代・安徳天皇、第82代・後鳥羽天皇の5代・30余年にわたって院政を行いました。1169年(仁安4年)に離宮・法住寺殿で出家して法皇になりました。院政期間中に平治の乱・源平の合戦を経て、鎌倉幕府が成立しました。なお第77代・後白河天皇は1192年(建久3年)に崩御しました。

【新熊野神社の歴史 備考】
*参考・・・新熊野神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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