今熊野観音寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

今熊野観音寺

今熊野観音寺の歴史を時代別年表にまとめ

今熊野観音寺の歴史を簡単にまとめています。今熊野観音寺は807年(大同2年)に真言宗の宗祖である弘法大師・空海が熊野権現の霊示を受けて草庵を結んだのが起源と言われています。自ら刻んだ一尺八寸の十一面観世音菩薩像を祀りました。(時代別年表・重要人物下記参照)

今熊野観音寺(アクセス・歴史・・・)

【弘法大師・空海】

●弘法大師・空海は804年(延暦23年)に天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)らとともに遣唐使として唐(中国)に渡り、長安の青竜寺(せいりゅうじ)で学び、806年(大同元年)に帰国しました。弘法大師・空海は20年の義務期間を2年に短縮し、経典・法具などを持て帰国したが、入京を許されなかったことから太宰府・観音寺に住し、809年(大同4年)に入京を許されました。

【今熊野観音寺の起源・始まり】

●今熊野観音寺は807年(大同2年)に弘法大師・空海が熊野権現(くまのごんげん)の霊示を受けて草庵を結んだのが起源と言われています。弘法大師・空海は唐(中国)から帰国し、東寺(とうじ)で真言密教の秘法を修法していた時、東山の山中に光明が差し、瑞雲が棚引いているのを見付け、不思議に思って訪れると熊野権現の化身である白髪の老翁が現れ、「この山に一寸八分の観世音がましますが衆生済度のためにこの地に来現されたのである。ここに一宇を構えて観世音をまつり、末世の衆生を利益し救済されよ。」と言い、弘法大師・空海に一寸八分の十一面観音菩薩(じゅういちめんかんのんぼさつ)像と一夥の宝印を授けました。弘法大師・空海は自ら一尺八寸の十一面観音菩薩像を刻み、授かった一寸八分の十一面観音菩薩像を体内仏として中に納め、一宇を建てて祀りました。なお弘法大師・空海は観音菩薩を祀るのにふさわしい霊地を選ぶ為、錫杖(しゃくじょう)で岩根を打つと霊泉が湧き出し、清涼なる清水を観音御利生の水として、「五智水」と名付けました。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●812年(弘仁3年)に弘法大師・空海が第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)の勅旨により、官財を賜って諸堂を建立し、天長年間(824年~833年)に完成したと言われています。
●平安時代前期に左大臣・藤原緒嗣の発願により、広大な寺地に伽藍の整備が開始され、藤原緒嗣が亡くなると藤原緒嗣の菩提を弔う為に子・藤原春津(ふじわらのはるつ)が引継ぎ、855年(斉衡2年)に完成させたと言われています。
●平安時代中期に中古三十六歌仙に数えられ、「枕草子(まくらのそうし)」の作者・清少納言(せいしょうなごん)の父・清原元輔(きよはらのもとすけ)の邸宅が今熊野観音寺付近にあったと言われ、仕えていた第66代・一条天皇(いちじょうてんおう)の皇后・定子が亡くなると父の邸宅近くに住し、定子の御陵に詣でて晩年を過ごしたとも言われています。
●平安時代後期に紀伊国(和歌山)熊野の熊野三山に対し、この地を今熊野(いまくまの)と称し、白河法皇(第72代・白河天皇(しらかわてんのう))の時代に今熊野修験(しゅげん)の中心地として栄え、今熊野観音寺は東山観音寺と言われるようになりました。
●1160年(永暦元年)に34回も熊野に詣でた後白河上皇(第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう))が離宮・法住寺殿(ほうじゅうじどの)の鎮守社として、新熊野神社(いまくまのじんじゃ)を創建した際、本尊・十一面観音菩薩像を本地仏(ほんじぶつ)に定め、山号「新那智山」を授け、東山観音寺を観音寺に改めました。なお後白河上皇は頭痛を持病とし、観音菩薩に治してもらったとも言われ、今熊野観音寺は頭痛封じの観音様として信仰されるようになりました。
●平安時代に蓮台野(れんだいの)・化野(あだしの)とともに京の三大墓地に数えられた鳥辺野(とりべの)の南西は鳥戸野(とりべの)と言われ、古くから貴族の葬地で、今熊野観音寺がその葬地を司って貴族の葬儀や法要を行いました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

●1234年(文暦元年)に後堀河上皇(第86代・後堀河天皇(ごほりかわてんのう)が崩御すると観音寺陵が築かれ、本尊を拝するように葬られています。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

●南北朝時代に兵火に見舞われたが、北朝の朝廷や足利将軍の配慮によって復興されました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

●1467年(応仁元年)に応仁の乱(おうにんのらん)が起こり、伽藍が焼失したが、その後復興しました。応仁の乱後に泉涌寺(せんにゅうじ)の塔頭(たっちゅう)になったとも言われています。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

●1580年(天正8年)に本格的な復興が開始され、奥の院の順礼堂が建立されていた場所に本堂が建立されるようになりました。天正8年の日付で「造東山新熊野観音寺状」という勧進の為の一巻が残されています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●江戸時代に西国三十三所の巡礼が益々盛んになったと言われています。
●1712年(正徳2年)に宗恕祖元(そうじょそげん)が本堂を再建しました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●1892年(明治25年)に英照皇太后(えいしょうこうたいごう)から茶室「福海寮」を賜りました。
●太平洋戦争中に梵鐘が金属類回収令によって供出されたが、戦後に戻ってきました。
●1984年(昭和59年)に多宝塔「医聖堂」が建立されました。
●2005年(平成17年)に平成洛陽三十三所観音が復興されました。

【今熊野観音寺の開山である弘法大師・空海】

弘法大師・空海は774年(宝亀5年)に佐伯直田公と阿刀大足の妹の子として讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)に生まれました。789年(延暦8年)に母方の叔父・阿刀大足のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に官僚育成機関である大学寮に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗の僧で、東大寺別当・勤操のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として唐(中国)に渡り、長安で青竜寺の恵果のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位の灌頂を受け、遍照金剛の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)に高野山で亡くなりました。

【今熊野観音寺の歴史 備考】
*参考・・・今熊野観音寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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