経王寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説
経王寺の歴史を時代別年表にまとめ
経王寺の歴史を簡単にまとめています。経王寺は1597年(慶長2年)に日依上人が本庄村の楞厳寺を日蓮宗に改めたのが起源と言われています。1602年(慶長7年)に京極高広から帰依を受け、現在の場所に移されたと伝えられています。(時代別年表・重要人物下記参照)
【真言宗の楞厳寺】
●楞厳寺(りょうごんじ)は1251年(建長3年)に叡山楞厳坊仁義法印が北条氏の保護を受け、一宇を与謝郡本庄村(現伊根町)に建立したのが起源とも言われています。当初、天台宗(てんだいしゅう)の寺院だったと言われています。その後真言宗(しんごんしゅう)の僧が住し、天台宗から真言宗に改められたと言われています。なお楞厳寺跡には1605年(慶長10年)に詮饒院日典上人が平野山浄国寺を創建したと言われています。浄国寺は経王寺の末寺になっったと言われています。
●丹後の日蓮宗(にちれんしゅう)は宝徳年間(1449年~1452年)に京都・学養寺開山で、身延山9世・日学の弟子で、身延門流の実教院日養が宮津で布教を始めたのが起源と言われています。
【経王寺の起源・始まり】
●経王寺は1597年(慶長2年)に日蓮宗の僧・善行院日依上人が本庄村の楞厳寺を真言宗から日蓮宗に改めたのが起源と言われています。善行院日依上人が宗論の末に日蓮宗に改宗したと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●1602年(慶長7年)5月に丹後国宮津藩2代藩主・京極高広(きょうごくたかひろ)から帰依を受け、現在の場所である金屋谷に移され、本城山経王寺と号しました。京極高広は妻・寿光院とともに経王寺を娘・了智院殿妙尭日清の香華所に定め、寺領を寄進したと言われています。本堂裏の墓地には1651年(慶安4年)1月19日に亡くなったとも言われる了智院殿妙尭日清の五輪塔が建立されています。ちなみに京極高広は1622年(元和8年)に丹後国宮津藩2代藩主になり、元和年間(1615年~1624年)・寛永年間(1624年~1644年)に寺町(金屋谷地区・小川地区)を整備した際に現在の場所に移されたとも言われています。寺町には栄照院・国清寺・桂昌院(けいしょういん・江戸幕府5代将軍・徳川綱吉)ゆかりの大頂寺・仏性寺・本妙寺・妙照寺・与謝蕪村(よさぶそん)ゆかりの見性寺・真照寺・悟真寺などの寺院が建立されています。
●1836年(天保7年)・1837年(天保8年)に大飢饉に見舞われ、大飢饉で亡くなった人々の供養塔が建立されました。供養塔は高さ5メートル余りで、「荒歳死亡無縁群霊 天保八年竜集丁酉冬十月 宮津宗門中」と刻まれています。
●1843年(天保14年)に現在の本堂が着工され、1845年(弘化2年)10月に再建されました。「本城山寄附連名簿」によると1843年(天保14年)の法事で大破した本堂の再建が決議され、夜に初雪によって瓦が落下したことから急遽工事が開始され、1845年(弘化2年)10月に再建が完成したと言われています。本堂は鬼瓦(おにがわわ)や長押の釘(くぎ)隠しに京極家の家紋「平四目結」が施されています。また本堂は天井に京都画壇岸派の祖・岸駒(がんく)に師事した宮津出身の絵師・和田屏山(わだびょうざん)が描いた雲龍図(うんりゅうず)もあります。和田屏山の作品は加悦・綾部などに多く残されています。
【経王寺を移転させた京極高広】
京極高広は1599年(慶長4年)に丹後国宮津藩初代藩主・京極高知の次男として伏見城下の京極屋敷で生まれました。1622年(元和8年)に父・京極高知が亡くなると京極家の家督と12万3,000石の遺領の内、7万8,200石を受け継ぎました。宮津城の城郭・城下町の整備や拡大を行いました。1654年(承応3年)に虐政によって農民が藩外に逃れ、同年4月に長男・京極高国に家督を譲り、安智軒道愚と号し、宮津市字安智に隠居しました。ただ京極高国も虐政を行い、隠居後も藩政に介入したことから長男・京極高国と激しく対立し、長男・京極高国の虐政と親不孝を江戸幕府に提訴し、1666年(寛文6年)に親子喧嘩によって宮津藩が改易されました。その後流浪の身になって京都・岡崎に閉居しました。なお京極高広は1677年(延宝5年)に亡くなりました。
【経王寺の歴史 備考】
*参考・・・経王寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)














