三室戸寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

三室戸寺ハス

三室戸寺の歴史を時代別年表にまとめ

三室戸寺の歴史を簡単にまとめています。三室戸寺は寺伝によると770年(宝亀元年)に第49代・光仁天皇の勅により、大安寺の僧・行表禅師を招き、現在の場所に御室を移して本尊・観音像を祀り、御室戸寺と称したのが起源です。(時代別年表・重要人物下記参照)

三室戸寺(アクセス・歴史・・・)

【第49代・光仁天皇】

●770年(宝亀元年)に第49代・光仁天皇(こうにんてんのう)が宮中に毎夜金色の霊光が差し込むの見て大変喜び、右少弁(うしょうべん)・藤原犬養(ふじわらのいぬかい)に勅して霊光の源を探させました。藤原犬養は宇治川(うじがわ)の支流・志津川(しづがわ)の渓流に沿って登って行くと古樹が鬱蒼と茂る中に青く澄んだ清淵があり、流水の響きが煩悩(ぼんのう)の垢(あか)を洗う心地を起させました。藤原犬養が清淵に近付くと高さ二丈余りで、相好円満・光明赫々とした千手観世音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)が幻のように清淵の中から現れました。藤原犬養は喜びの涙を押え、掌を合せて厚く頂礼して清淵に飛び入り、千手観世音菩薩を抱き上げると先ほどの尊容ではなく、像高一尺二寸で、二臂(にっぴ)の観音像に変化しました。藤原犬養は平城京に戻って、光仁天皇に事の始終を奏上すると光仁天皇は深く感殊し、宮中に観音像を祀ることになりました。

【三室戸寺の起源・始まり】

●三室戸寺は寺伝によると770年(宝亀元年)に光仁天皇の勅により、南都(奈良)・大安寺(だいあんじ)の僧・行表禅師(ぎょうひょうぜんじ)を招き、現在の場所に御室を移して観音像を祀り、御室戸寺と称したのが起源です。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●805年(延暦24年)に光仁天皇の皇子で、第50代・桓武天皇(かんむてんのう)が本尊・観音像を開扉して大供養が行われました。本尊・観音像は三室戸寺の創建以来、無比の尊像として勅封にされていました。桓武天皇は自ら白壇(びゃくだん)の木で、最初に出現した千手観世音菩薩像を二丈一尺に刻み、本尊・観音像を胎内に納め、大悲閣を建立して帝都鎮護の寺にしました。その後33年ごとに勅許・院宣により、開扉大供養を行うことが慣例になりました。
●寛平年間(889年~898年)に三井寺(みいでら・園城寺(おんじょうじ))の智証大師(ちしょうだいし)・円珍(えんちん)が留錫して中興したと言われたいます。
●平安時代中期に花山法皇(第65代・花山天皇(かざんてんのう))がこの地に離宮を設け、三室戸寺を西国三十三所巡礼の第10番札所にしました。
●長和年間(1012年~1017年)に第67代・三条天皇(さんじょうてんのう)が法華三昧堂を建立しました。
●平安時代中期に第72代・白河天皇(しらかわてんのう)が常行三昧堂を建立し、荘園も寄進したと言われています。白河法皇は熊野詣の際、三室戸寺で17日間の護摩供を行い、その後熊野検校宮の入峰に際に17日間の修行を行うことが佳例になりました。
●康和年間(1099年~1103年)に三井寺(園城寺)長吏・隆明大僧正(りゅうめいだいそうじょう)が中興し、園城寺の子院・羅惹院を三室戸寺に移し、仏像・経典も移しました。羅惹院は白河天皇の御願によって三井寺(園城寺)内に建立された一院でした。隆明大僧正は三室戸寺に住し、御室戸の僧正と言われ、三室戸寺も隆盛を誇りました。第73代・堀河天皇(ほりかわてんのう)は隆明大僧正に深く帰依し、伽藍を増修したり、羅惹院の本尊・尊星王の護摩料所として、武蔵国中茎郷領家職の官符を賜りました。また白河法皇の皇子・静証法親王が入寺して隆明大僧正に学び、御室戸宮と号しました。
●平安時代後期に光仁天皇、花山法皇、白河法皇三帝の離宮になったことから御室戸寺の「御」を「三」に替え、三室戸寺と称するようになりました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

●1462年(寛正3年)に食堂からの出火により、貝吹堂・観音堂・彼岸所・西塔院・常行堂・宝蔵などの伽藍の多くが焼失しました。桓武天皇が自ら刻んだ二丈一尺の千手観世音菩薩像も焼失したが、本尊・観音像、常行堂の本尊・阿弥陀(あみだ)三尊、隆明大僧正の念持仏・釈迦如来(しゃかにょらい)立像などは焼失を免れました。
●1482年(文明14年)に三井寺(園城寺)阿弥陀院の壱阿が観音堂再興の勅意を受け、1487年(文明19年)に本堂を再建しました。本尊開帳の大法会では聖護院宮准三后道興大僧正が導師を勤め、勅使や室町幕府9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)らが拝賀参列しました。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

●1573年(天正元年)に織田信長が槙島城に立て籠もった室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)と敵対した際、衆徒が足利義昭の味方をした為に寺領を没収されて衰退しました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●1639年(寛永16年)に第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の第11皇子で、聖護院門跡・道晃法親王(どうこうほうしんのう)が再興しました。
●明和年間(1764年~1772年)頃に堂宇が荒廃し、忍興和尚が改築を計画したが、実現することはできませんでした。
●1814年(文化11年)に法如和尚が現在の本堂を再建しました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●1910年(明治43年)に三重塔(府指定有形文化財) を兵庫県佐用郡三日月村(佐用町)の高蔵寺から買い取って参道西側の丘上に移築しました。その後1977年(昭和52年)に現在の場所に移築されました。なお三重塔は1704年(元禄17年)に高蔵寺に建立されました。
●1989年(平成元年)に中根金作(なかねきんさく)が庭園「与楽園」を作庭しました。

【三室戸寺の開山である行表禅師】

行表禅師は722年(養老6年)に檜前調使案麻呂の子として大和国葛上郡高宮郷で生まれたとも言われています。741年(天平13年)に勅により、恭仁宮で唐(中国)からの渡来僧・道せんに師事して得度し、743年(天平15年)に興福寺北倉院で受戒し、興福寺で華厳・法相・律・禅などを学びました。その後近江国の崇福寺の寺主になり、1丈余りの千手観音菩薩を造仏し、近江国師・伝燈大法師に任じられました。778年(宝亀9年)に天台宗の宗祖である伝教大師・最澄の師になり、780年(宝亀11年)に伝教大師・最澄を近江国分寺で得度させました。その後奈良の大安寺に移りました。晩年に師・道せんが751年(天平勝宝3年)に退居した大和の比蘇山寺に隠棲しました。なお行表禅師は797年(延暦16年)に亡くなりました。

【三室戸寺の歴史 備考】
*参考・・・三室戸寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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