武信稲荷神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

武信稲荷神社の歴史を時代別年表にまとめ
武信稲荷神社の歴史を簡単にまとめています。武信稲荷神社は859年(貞観元年)に藤原良相が延命院と勧学院の守護神として創建したと言われています。その後藤原武信が篤く信仰したことから武信稲荷と言われるようになりました。(時代別年表・重要人物下記参照)
【勧学院・延命院】
●821年(弘仁12年)に藤原良相(ふじわらのよしすけ)の父・藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が勧学院(かんがくいん)を創建しました。勧学院は872年(貞観14年)以前に大学別曹(だいがくべっそう)として公認されました。大学別曹は氏族の学生の為に設けられた寄宿舎です。ちなみに学生は大学寮(だいがくりょう)内に寄宿しなければならないが、藤原氏の学生は大学別曹に寄宿したそうです。勧学院は現在の京都市中京区西ノ京勧学院町にあり、大学南曹(だいがくなんそう)とも言われていました。なお勧学院阯碑は京都市中京区西ノ京職司町に建てられています。
●859年(貞観元年)に西三条大臣とも言われた右大臣・藤原良相が延命院(えんめいいん)を創建しました。延命院は藤原氏一族の病人を収容する療養施設です。なお平安時代の古図には三条から南の神社付近一帯は「この地、藤原氏延命院の地なり」と記されています。なお延命院は勧学院が管理していました。
【武信稲荷神社の起源・始まり】
●武信稲荷神社は859年(貞観元年)2月に藤原良相が療養施設である延命院と藤原氏の学問所である勧学院の守護神として創建したと言われています。その後藤原武信(ふじわらのたけのぶ)が篤く信仰し、神威の発揚に努めたことから武信稲荷と言われるようになりました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
●平安時代後期に平清盛(たいらのきよもり)の嫡男・平重盛(たいらのしげもり)が厳島神社(いつくしまじんじゃ)から榎の大木を移植したと言われています。榎の大木は樹齢850年以上で、京都市天然記念物に指定されています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●寛永年間(1624年~1644年)に青山播磨守(あおやまはりまのかみ)の藩邸になりました。
●元禄年間(1688年~1704年)に武信稲荷神社が現在の場所に遷されたと言われています。
●江戸時代末期に坂本龍馬(さかもとりょうま)と妻・おりょう(楢崎龍(ならさきりょう))が榎の大木に登って、おりょうの父・楢崎将作(ならさきしょうさく)の安否を探っていたと言われています。武信稲荷神社の社前には六角獄舎(ろっかくごくしゃ・三条新地牢屋敷)があり、勤王の志士らが捕らえられていた。楢崎将作も安政の大獄で六角獄舎に捕らえられていました。なお坂本龍馬は幕府に追われ、おりょうに京都にいることを示す為、榎の大木に「龍」と彫って伝言を書き、その伝言で再会できたと言われています。榎の大木は坂本龍馬とおりょうの仲を取り持ったことから「縁の木」とも言われています。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●1871年(明治4年)の廃藩置県後に武信稲荷神社だけが残されました。
●1877年(明治6年)に村社に列せられました。
●1922年(大正11年)に神苑地の改修を願い出て、玉垣を新造する際に神苑が整備されました。
●2011年(平成23年)に境内が改修されました。
【武信稲荷神社を創建した藤原良相】
藤原良相は813年(弘仁4年)は藤原北家の左大臣・藤原冬嗣と藤原美都子の間に五男として生まれました。若くして大学で学び、834年(承和元年)に蔵人兼右兵衛権大尉として、第54代・仁明天皇の身近に仕えました。838年(承和5年)に従五位下に叙され、翌838年(承和6年)に内蔵頭に任ぜられ、その後左近衛少将・蔵人頭・左近衛中将などを歴任し、848年(承和15年)に参議として公卿に列しました。842年(承和9年)の承和の変では左近衛少将として、近衛兵40名を率いて皇太子・恒貞親王の座所を守りました。850年(嘉祥3年)に甥で、皇太子・道康親王が第55代・文徳天皇に即位すると正四位下に昇叙し、皇太子・惟仁親王の春宮大夫に任ぜられました。857年(天安元年)に兄・藤原良房が太政大臣に昇進するとそれを受けて右大臣に任じられ、859年(天安3年)に正二位に昇叙しました。藤原良相は兄・藤原良房を支えたと言われています。娘・多賀幾子が第55代・文徳天皇、娘・多美子が第56代・清和天皇が女御として入内しました。866年(貞観8年)に第56代・清和天皇が藤原良相の西三条第(百花亭)に行幸し、40人の文人が参加した大規模な花見の宴を催しました。藤原良相は文学を愛して学識が豊かで、歴史書「続日本後紀」や「貞観格式」などの編纂を手掛けたり、福祉施設である延命院・崇親院などの施設を設立し、藤原氏一族の貧窮者の救済を行いました。なお藤原良相は867年(貞観9年)に亡くなりました。
藤原良相は童謡「一寸法師」に「京は三条の大臣殿」として歌われていると言われています。
【武信稲荷神社の歴史 備考】
*参考・・・武信稲荷神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ













