谷性寺光秀公忌2025年6月14日(日程時間・・・)

谷性寺光秀公忌

谷性寺光秀公忌(日程・時間・・・)を紹介しています。光秀公忌は例年6月14日に行われています。光秀公忌では明智光秀(あけちみつひで)を偲んで回向法要が行われます。境内には明智光秀の首を葬ったとも言われる首塚が祀られています。なお亀岡市では例年5月に亀岡光秀まつり(かめおかみつひでまつり)も行われています。(要確認)(詳細下記参照)

【谷性寺光秀公忌2025 日程時間(要確認)】
谷性寺光秀公忌2025は2025年(令和7年)6月14日(土曜日)に行われます。(現在確認中・要注意)
*参考・・・亀岡市観光協会ホームページ

【谷性寺光秀公忌 アクセス・マップ】
場所・・・京都府亀岡市宮前町猪倉土山39
最寄り駅・バス停・・・猪倉(徒歩約5分)

アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*JR嵯峨野線・亀岡駅から京阪京都交通バス

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【谷性寺光秀公忌 歴史・簡単概要】
谷性寺光秀公忌(みつひでこうき)では明智光秀(あけちみつひで)を偲んで回向法要が行われます。なお亀岡市では例年5月に亀岡光秀まつり(かめおかみつひでまつり)も行われています。(要確認)
明智光秀は1528年(享禄元年)に清和源氏の美濃・土岐氏(ときし)支流・明智氏の一族として美濃明智庄で生まれ、先ず美濃の戦国大名・斎藤道三に仕えたとも、越前の戦国大名・朝倉義景に仕えたとも言われています。その後義景を頼った室町幕府第15代・足利義昭とともに織田信長に赴き、信長の家臣となって丹波を攻略し、初代丹波亀山城主になります。1582年(天正10年)6月2日に本能寺の変を起こし、1582年(天正10年)6月13日に山崎の戦いで敗れ、落ち武者狩りで負傷して小栗栖(おぐるす)で自害しました。光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後に山崎の戦いで敗れて自害したことから「三日天下」とも言われています。
回向は先祖の成仏を願って供養をすることを言います。また回向は自分の修めた功徳が他人にも差し向けられ、自他ともに悟りの助けとすることも言うそうです。回向は菩提回向・衆生回向・実際回向などに分類されるそうです。
亀岡光秀まつりでは谷性寺(光秀寺・桔梗寺)の明智光秀首塚の前で遺徳を偲ぶ明智光秀公追善法要が行われ、明智光秀・明智秀満・明智治右衛門・斎藤利三・溝尾庄兵衛・正室熙子・玉子(光秀の娘・細川ガラシャ)・武者・女武者などに扮した総勢約500名の武者行列がJR亀岡駅周辺の市内中心部を練り歩く明智光秀公武者行列が行われます。
亀岡光秀まつり

【谷性寺 歴史・簡単概要】
谷性寺(こくしょうじ)・光秀寺(ひでみつでら)・桔梗寺(ききょうでら)は起源が明確ではありません。谷性寺は平安時代に創建されたとも言われています。天正年間(1573年~593年)に丹波を平定した明智光秀が本尊・不動明王を篤く崇敬し、1582年(天正10年)の本能寺の変の際に不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願したとも言われています。その後山崎の戦いで光秀が豊臣秀吉に敗れて自害すると光秀の首は谷性寺まで持ち帰られたとも言われています。境内には明智光秀の首を葬ったとも言われる首塚が祀られています。ちなみに光秀は首を守護職に使用が認められた毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで知恩院(ちおんいん)に届けてくれと言い残したとも言われています。また光秀の首は竹藪に隠されたが発見され、信長の三男・織田信孝(おだのぶたか)の元に届けられて本能寺に晒され、その後京都粟田口近くに首塚が築かれたとも言われています。なお明智光秀は1579年(天正7年)に丹波を平定して初代丹波亀山城主になり、1582年(天正10年)6月2日に本能寺の変を起こし、1582年(天正10年)6月13日には山崎の戦いで敗れ、落ち武者狩りで負傷して小栗栖(おぐるす)で自害しました。
谷性寺は真言宗大覚寺派の寺院です。
*参考・・・谷性寺(アクセス・歴史・・・)

【谷性寺光秀公忌 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
谷性寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報

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