梛神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

梛神社

梛神社の歴史を時代別年表にまとめ

梛神社の歴史を簡単にまとめています。梛神社は869年(貞観11年)に京都で疫病が流行し、その悪疫を鎮める為、播磨国の広峰神社から牛頭天王を勧請して鎮疫祭を行った際、牛頭天王の分霊をのせた神輿を祀ったのが起源と言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)

梛神社(アクセス・歴史・・・)

【広峰神社・隼神社】

●広峰神社(ひろみねじんじゃ)は733年(天平5年)に遣唐使・吉備真備(きびのまきび)が唐(中国)から帰朝する途中、素戔嗚尊(すさのおのみこと・牛頭天王(ごずてんのう))の神託を受け、第45代・聖武天皇(しょうむてん)にその旨を奏上し、翌734年(天平6年)に白幣山(はくへいさん)に社殿が建立されたのが起源です。その後972年(天禄3年)に白幣山から現在の広峰山に遷座しました。
●梛神社の境内に祀られている隼神社(はやぶさじんじゃ)は「日本三代実録(にほんさんだいじつぽく)」によると860年(貞観2年)6月15日に後院隼神として、神階が無位から従五位下(じゅごいげ)に叙され、平安時代(794年~1185年)前期以前から祀られていたとも言われています。その後865年(貞観7年)に従五位下から従五位上(じゅうごいじょう)、868年(貞観10年)に従五位上から従四位下(じゅしいげ)、874年(貞観16年)に従四位下から従四位上(じゅしいじょう)に昇叙しました。その後927年(延長5年)成立の「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に「左京四条坐神一座 月次新嘗 隼神社」と記され、式内大社に列せられ、月次祭・新嘗祭で幣帛に授かりました。隼神社は天下安穏・五穀豊穣にご利益があり、古来から朝廷に篤く尊崇されていたと言われています。なお奈良県奈良市に隼神社があり、794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇(かんむてんのう)による平安京遷都の際に遷されたとも言われています。

【梛神社の起源・始まり】

●梛神社は社伝によると869年(貞観11年)3月朔日に京都で疫病(しっぺい)が流行し、その悪疫(あくえき)を鎮める為、播磨国(兵庫)の広峰神社(ひろみねじんじゃ)から牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請して鎮疫祭を行った際、牛頭天王の分霊をのせた神輿を四条の坊城に祀ったのが起源と言われています。この地に数万本の梛の木があり、源某(みなもとのなにがし)と言う者が住し、神霊を朱雀大路(すざくおおじ)に近い梛の林中に祭祀しました。その後祇園社(ぎおんしゃ)と言われた八坂神社(やさかじんじゃ)に遷座したことから梛神社は元祇園社とも言われています。八坂神社への遷座の際、この地の住人は花を飾った風流傘(ふうりゅうがさ)を立て、棒を振り、楽を奏して神輿を送り、祇園会(ぎおんえ・祇園祭)の起源になったとも言われています。古来から祇園会(祇園祭)の際に傘鉾(かさほこ)の役人が壬生村から出る定めになったと伝えられています。
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【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

●鎌倉時代以降に衰微したと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●江戸時代後期に荒廃したと言われています。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●1874年(明治7年)に社殿などが整備されました。
●1918年(大正7年)に梛神社が境内に遷座しました。遷座によって境内に二つの神社の本殿が横に並ぶ珍しい形式になりました。
●1922年(大正11年)に神幸祭(しんこうさい)が復活したと言われています。
●1932年(昭和7年)に下京区万寿寺通烏丸西入ル御供石町にあった御供石(ごくいし)が境内北側に移されました。御供石は祇園祭の山鉾巡行(やまほこじゅんこう)の際、石の上に神饌(しんせん)を置いて神に供える習わしになっていたそうです。
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●1929年(昭和4年)に社殿などが整備されました。

【梛神社の祭神・牛頭天王】

牛頭天王は神仏習合の神で、仏教の開祖・お釈迦さまが説法を行った祇園精舎(祇樹給孤独園精舎)の守護神とされていました。牛頭天王は東方浄瑠璃世界(東方の浄土)の教主・薬師如来(薬師瑠璃光如来)の垂迹で、素戔嗚尊の本地とされました。また牛頭天王は陰陽道で方角神である天道神や蘇民将来の説話で武塔神(武塔天神)とも同一視されていました。

【梛神社の歴史 備考】
*参考・・・梛神社ホームページ

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