法金剛院の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

法金剛院

法金剛院の歴史を時代別年表にまとめ

法金剛院の歴史を簡単にまとめています。法金剛院が建立されている場所は平安時代前期に清原夏野が造営した山荘があった場所です。法金剛院は837年(承和4年)の清原夏野の死後に山荘が寺院に改められ、双丘寺と称したのが起源です。(時代別年表・重要人物下記参照)

法金剛院(アクセス・歴史・・・)

【清原夏野の山荘】

●法金剛院(ほうこんごういん)が建立されている場所は平安時代(794年~1185年)前期の830年(天長7年)頃に右大臣・清原夏野(きよはらのなつの)が造営した山荘があった場所です。

【法金剛院の起源・始まり】

●法金剛院は837年(承和4年)の清原夏野の死後に山荘が寺院に改められ、双丘寺(ならびがおかでら)と称したのが起源です。

【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●平安時代前期に珍花奇花が植えられ、第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)、第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)、第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)が行幸したと言われています。仁明天皇は背後にある内山に登って景勝を愛で、内山に五位を授け、内山は五位山(ごいさん)と言われるようになりました。五位山は法金剛院の山号になっています。
●858年(天安2年)に第55代・文徳天皇(もんとくてんのう)の発願により、伽藍が整備されて定額寺(じょうがくじ)に列せられ、寺号が天安寺(てんあんじ)に改められました。ただその後衰退したと言われています。
●1130年(大治5年)に第74代・鳥羽天皇(とばてんのう)の中宮で、第75代・崇徳天皇(すとくてんのう)と第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう)の生母・待賢門院(たいけんもんいん・藤原璋子(ふじわらのしょうし))が再興し、寺号を法金剛院に改めました。待賢門院の発願、林賢(りんけん)・徳大寺静意(だいとくじじょうい)の作庭により、極楽浄土(ごくらくじょうど)を模して池泉回遊式浄土庭園が造営されました。五位山を背景に中央に池が掘られ、池の西側に西御堂(本尊・丈六阿弥陀如来)、南側に南御堂(九体阿弥陀堂)、東側に女院の寝殿(しんでん)が建てられ、庭に青女の瀧(せいじょのたき・青女の滝)が造られました。青女の瀧は日本最古の人工の滝とされています。その後三重塔・東御堂・水閣が建てられ、桜・菊・紅葉が美しかったと言われています。なお最盛期には待賢門院の御所・西御堂(丈六阿弥陀堂)・南御堂(九体阿弥陀堂)などが立ち並んでいました。
●平安時代後期に待賢門院を深く思慕した歌人・西行は「なんとなく 芹と聞くこそ あはれなれ 摘みけん人の 心知られて」・「紅葉みて 君が袂や しぐるらん 昔の秋の 色をしたひて」を詠んでいます。

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【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

●1279年(弘安2年)に融通念仏(ゆうづうねんぶつ)の円覚上人(えんがくしょうにん・円覚十万上人)が再興し、律宗(りっしゅう)に改められました。円覚上人は融通念仏(壬生狂言(みぶきょうげん)・嵯峨念仏)を広め、法金剛院が融通念仏の拠点になったと言われています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

●室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))で焼失したと言われています。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

●天正年間(1573年~1592年)に兵火に見舞われたと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●1605年(慶長10年)に慶長地震に見舞われたと言われています。
●1617年(元和3年)に照珍和尚(しょうちんおしょう)が本堂(礼堂)を再建しました。経蔵なども建立されました。ただ旧観に復することはありませんでした。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●1899年(明治32年)頃に山陰線の開通に伴って、境内が二分されて南側を失いました。
●1900年(明治33年)に律宗寺院として独立しました。
●1968年(昭和43年)に丸太町通が拡幅され、本堂(礼堂)・地蔵院を移築され、釣殿・仏殿(収蔵庫)が建立されました。
●1970年(昭和45年)に本堂が建立され、地蔵堂が移築されました。また浄土式庭園の遺構が発掘され、復元されました。
●1971年(昭和46年)に庭園が名勝に指定されました。
●1996年(平成8年)にJR花園駅周辺で整備が行われ、駅南で池跡・三重塔跡の基壇が発見されました。

【法金剛院の中興とされる待賢門院】

待賢門院(藤原璋子)は1101年(康和3年)に権大納言・藤原公実と左中弁・藤原隆方の娘・光子の子として生まれました。幼少の頃に白河法皇(第72代・白河天皇)の寵姫・祇園女御の養女になり、その後白河法皇に養育され、7歳の時に父・藤原公実が亡くなりました。白河法皇の溺愛振りが「今鏡」に記されています。1115年(永久3年)頃に関白・藤原忠実の嫡男・藤原忠通との縁談話があったが、待賢門院の素行に噂があった為、藤原忠実は固辞して白河法皇の不興を買ったと言われています。1118年(永久5年)に父方の従弟で、第74代・鳥羽天皇に入内し、1118年(永久6年)に立后されました。1119年(元永2年)に顕仁親王(第75代・崇徳天皇)を産みました。顕仁親王(崇徳天皇)は白河法皇の皇子で、鳥羽天皇がその事実を知って、保元の乱の一因になったとも言われています。1123年(保安4年)に白河法皇が顕仁親王を崇徳天皇に即位させ、翌1124年(天治元年)に院号を宣下されて待賢門院と称しました。1127年(大治2年)に雅仁親王(第77代・後白河天皇)を産みました。1129年(大治4年)に最大の庇護者であった白河法皇が崩御し、藤原忠実の娘・泰子(高陽院)が入内したり、鳥羽上皇が藤原得子(美福門院)を寵愛すると鳥羽上皇との関係が悪化し、1141年(永治元年)に鳥羽上皇が藤原得子が産んだ体仁親王を第76代・近衛天皇に即位されると権勢を失いました。1142年(康治元年)に法金剛院で出家しました。なお待賢門院(藤原璋子)は1145年(久安元年)に亡くなりました。ちなみに1155年(久寿2年)に待賢門院(藤原璋子)が産んだ雅仁親王が後白河天皇に即位し、1156年(保元元年)の保元の乱で後白河天皇方と崇徳上皇方が対立しました。

【法金剛院の歴史 備考】
*参考・・・法金剛院(歴史・見どころ・・・)ホームページ

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