室町幕府11代将軍・足利義澄(あしかがよしずみ)と祇園祭
室町幕府11代将軍・足利義澄と祇園祭
室町幕府11代将軍・足利義澄は1495年1月23日(明応3年12月27日)に将軍に就任し、1508年5月15日(永正5年4月16日)まで勤めました。足利義澄は将軍在職中の1500年(明応9年)に祇園祭を見物したと言われています。
【祇園祭2026 日程】
祇園祭2026は2026年(令和8年)7月1日(水曜日)の吉符入から2026年(令和8年)7月31日(金曜日)の疫神社の夏越祭までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2026日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【室町幕府11代将軍・足利義澄(あしかがよしずみ)】
室町幕府11代将軍・足利義澄は戦国時代(1493年~1590年)の1495年1月23日(明応3年12月27日)に将軍に就任し、1508年5月15日(永正5年4月16日)まで勤めました。足利義澄は将軍在職中の1500年(明応9年)に祇園祭を見物したと言われています。祇園祭は1467年(応仁元年)に応仁の乱が勃発すると33年間中絶し、1500年(明応9年)に再興されました。
関白・太政大臣である近衛政家(このえまさいえ)が記した日記「後法興院記(ごほうこういんき)」1500年(明応9年)6月7日の条に「武家(足利義澄)可有見物之由風聞処、下行物過分間、不事行云々、仍密々女中棧敷へ被罷出云々、或京兆(細川政元)棧敷へト云々」と記され、足利義澄が歴代の足利将軍のように桟敷を構えて祇園祭を見物できず、女中の棧敷あるいは管領・細川政元(ほそかわまさもと)の棧敷で密に祇園祭を見物したと噂があったことが分かります。奈良・興福寺(こうふくじ)の塔頭(たっちゅう)・大乗院(だいじょういん)の歴代門跡(もんぜき)の日記「大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)」6月7日の条に「公方(足利義澄)無御見物」、また6月12日の条に「祇薗(園)会ニハ公方(足利義澄)内々隠蜜(密)ニテ御見物」と記され、6月7日の日記には足利義澄が祇園祭を見物したかったことが記され、5日後の6月12日の日記には足利義澄が見物したことが記されています。応仁の乱前には室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)、室町幕府2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)、室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)、室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)、室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)、室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が桟敷を構えて祇園祭を見物していたが、約10年続いた応仁の乱の戦乱で室町幕府が衰退し、将軍の権威も下がったこともあり、足利義澄は桟敷を構えることができなかったのかもしれません。ちなみに「大乗院寺社雑事記」には「四条面ニハ細川棧敷五間」と記され、細川政元が桟敷を構えて祇園祭を見物したことが分かります。細川政元は1493年(明応2年)の明応の政変で室町幕府10代将軍・足利義稙(あしかがよしたね)を追放し、足利義澄を室町幕府11代将軍に擁立すると室町幕府の実力者になって実権を掌握し、祇園祭再興に尽力しました。
●足利義澄は1481年(文明12年)1月15日に堀越公方・足利政知の次男として生まれました。異母兄・茶々丸が堀越公方の後継者とされ、叔父で、室町幕府8代将軍・足利義政の意向により、父・足利政知が還俗前に院主を勤めていた京都・天龍寺香厳院の後継者に定められました。1487年(文明19年)に上洛して香厳院に入り、出家して法名「清晃」を名乗りました。1489年(長享3年)に従兄で、室町幕府9代将軍・足利義尚が亡くなり、翌1490年(延徳2年)に足利義政も亡くなると将軍候補に挙げられたが、足利義政の正室・日野富子の推挙によって叔父・足利義視の子・足利義稙(義材)が室町幕府10代将軍になりました。日野富子から小川殿を譲られことを巡り、日野富子と足利義稙(義材)の関係が悪化しました。1493年(明応2年)の明応の政変で管領・細川政元が足利義稙(義材)を追放すると細川政元・日野富子・伊勢貞宗らの支援により、足利義政の猶子とされ、1495年(明応4年)に室町幕府11代将軍になりました。ただ実権は細川政元・日野富子・伊勢貞宗が握りました。その後日野富子が亡くなると細川政元と対立するようになりました。その後細川政元が将軍候補で、足利義稙の異母弟・実相院義忠を殺害すると対立と協調を維持しました。1507年(永正4年)に細川政元が暗殺され、翌1508年(永正5年)に前将軍・足利義稙(義尹)の復帰をもくろむ大内義興軍の上洛の報により、近江国の六角高頼を頼って水茎岡山城に逃れ、将軍を廃され、足利義稙(義尹)が将軍に返り咲きました。細川澄元・三好之長・三好長秀を京都に侵攻させたが、細川高国・大内義興・畠山尚順らに敗れ、足利義稙(義尹)の暗殺にも失敗しました。なお足利義澄は1511年(永正8年)9月6日に足利義稙(義尹)・細川高国・大内義興との決戦直前に水茎岡山城で病死しました。
【室町幕府11代将軍・足利義澄と祇園祭 備考】
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祇園祭2026日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)













