金札宮の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

金札宮

金札宮の歴史を時代別年表にまとめ

金札宮の歴史を簡単にまとめています。金札宮は750年(天平勝宝2年)に孝謙天皇が宸翰「金札白菊大明神」を贈り、里人が社殿を建立したのが起源とも、貞観年間に橘良基が阿波から天太玉命を勧請したのが起源とも言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)

金札宮(アクセス・歴史・・・)

【伏見・久米村】

●伏見・久米村は伏見九郷(山村・舟津村・法安寺村・即成就院村・石井村・森村・北尾村・北内村)に数えられていました。なお室町時代(1336年~1573年)に描かれた「伏見九郷之図」の久米村には本殿などの建物と神宮寺・西方寺が描かれています。

【金札宮の起源・始まり】

●金札宮は社伝によると750年(天平勝宝2年)に第46代・孝謙天皇(こうけんてんのう)が宸翰(しんかん)「金札白菊大明神」を贈り、里人が社殿を建立したのが起源とも言われています。750年(天平勝宝2年)に長さ二丈に及ぶ流れ星が降る異変があり、孝謙天皇が深く憂慮していた時、伏見久米の里の翁が白菊を植えて楽しんでいました。奇妙に思った里人が翁に名前を尋ねると太玉命(ふとだまのみこと)と名乗り、秋に白菊を楽しみ、干害の時には白菊の露を注ぐと言い、手に持った白菊を打ち振るうと清水が湧き出て尽きることがありませんでした。白菊が潤うと福運が来て、家運が長く隆盛し、子孫が繁栄し、火災の禍から除かれるだろうと言ったことから里人がこの奇端を孝謙天皇に奏上し、喜んだ孝謙天皇が宸翰を与えたと言われています。なお伏見に宮居を造営中、突然金の札が降り、札には永く伏見に住んで国土を守らんという誓いが書かれており、人々が集まると虚空から天照大神(あまてらすおおみかみ)から遣わされた天太玉命(あめふとたまのみこと)なり、天太玉命を拝むなら瑞垣(みずがき)を作るべしと聞こえたとも言われています。
●金札宮は貞観年間(859年~877年)に官人・橘良基(たちばなのよしもと)が阿波(徳島)から天太玉命を勧請したのが起源とも言われています。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●平安時代以降に第50代・桓武天皇(かんむてんのう)など歴代天皇から篤く崇敬され、天皇が行幸したり、修繕の勅を出したりしたと言われています。
●平安時代前期に樹齢1,200年とも言われるご神木・クロガネモチの木(京都市の天然記念物)が植えられたと言われています。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

●1299年(正安元年)に第93代・後伏見天皇(ごふしみてんおう)が荘園を寄進し、隆盛を極めたと言われています。
●鎌倉時代後期に祠官・金松弥三郎宗広が本願寺(ほんがんじ)の存覚に帰依し、神宮寺・久米寺が建立されたと言われています。
●1322年(元亨2年)に久米寺が再興されたと言われています。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

●1355年(正平10年・文和4年)に寺号が久米寺から西方寺に改められたと言われています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

●室町時代前期に猿楽師(さるがくし)・観阿弥(かんあみ)が謡曲「金札」をつくりました。謡曲「金札」は金札宮の縁起を表したものです。
●室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))で焼失しました。
●室町時代後期に伏見宮貞常親王(ふしみのみやさだつねしんのう)が再興しました。
●室町時代後期に第104代・後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)から修繕の勅があり、社勢を取り戻したと言われています。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

●1592年(天正20年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が伏見城を築城した際に現在の場所から西方約250メートルの御駕篭町に遷されました。旧地には近年まで名水「白菊井」が残されていました。金札宮は守護神として伏見城の鬼門である伏見山艮(うしとら)に遷されたとも言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●1604年(慶長9年)に喜運(きうん)が喜運寺(きうんじ)を創建した際、金札宮が鎮守杜として現在の鷹匠町に遷されました。
●1846年(弘化3年)に伏見奉行・内藤豊後守の許可により、現在の社殿の建立が開始し、1848年(嘉永元年)に完成しました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●1868年(明治元年)に薩摩藩藩士・大山彦八から金燈籠が寄進されました。
●明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、喜運寺から独立しました。
●2010年(平成22年)に寶惠駕籠の巡行が55年振りに復活しました。

【金札宮を創建した孝謙天皇】

第46代・孝謙天皇(第48代・称徳天皇)は718年(養老2年)に第45代・聖武天皇と藤原氏出身で史上初めて人臣から后になった光明皇后(光明子)の皇女・阿倍内親王として生まれました。父と母の間に基皇子が生まれたが、728年(神亀5年)に早世しました。また父と県犬養広刀自の間に安積親王が生まれたが、後ろ盾を持たなかった為、738年(天平10年)に立太子され、史上唯一の女性皇太子になりました。744年(天平17年)に安積親王が亡くなり、749年(天平勝宝元年)に父からの譲位され、孝謙天皇に即位しました。758年(天平宝字2年)に病気の母に仕える為、皇太子・大炊王に譲位して第47代・淳仁天皇に即位しました。760年(天平宝字4年)に母が亡くなり、その後孝謙上皇が道鏡を寵愛するようになり、764年(天平宝字8年)に孝謙上皇・道鏡と対立した藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱が起こり、淳仁天皇が廃され、孝謙上皇が第48代・称徳天皇に即位しました。その後769年(神護景雲3年)に道鏡が皇位に就くべしという宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)が起こりました。なお第46代・孝謙天皇(第48代・称徳天皇)は770年(神護景雲4年)に崩御しました。

【金札宮の歴史 備考】
*参考・・・金札宮(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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