御金神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

御金神社の歴史を時代別年表にまとめ
御金神社の歴史を簡単にまとめています。御金神社は長きにわたり個人の屋敷内に邸内社として祀られていたのが起源と言われています。1883年(明治16年)に崇敬者や近隣の住民から奉賛され、現在の場所に社殿が建立され、境内が整えられました。(時代別年表・重要人物下記参照)
【個人の屋敷の邸内社】
●御金神社のすぐ東側には釜座通(かまんざどおり)が走り、平安時代(794年~1185年)から鋳物(いもの)職人である釜師が集まり、特権が与えられ茶釜を鋳造していました。また東側には両替町通(りょうがえまちどおり)も走り、一帯には江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が設けた金座(きんざ)・銀座(ぎんざ)があり、幕府の金貨を鋳造していました。また各地の金銀細工業者が集められていました。御金神社周辺には崇敬者が多く住していました。
●江戸時代(1603年~1868年)後期に樹齢200年を超え、樹高約22メートル・幹回り2メートル以上の御神木・銀杏(いちょう)が植えられました。なお御金神社ではイチョウ形のお守り・イチョウ形の絵馬が授与されています。
【御金神社の起源・始まり】
●御金神社は長きにわたり密かに個人の屋敷内に邸内社(ていないしゃ)として祀られていたのが起源と言われています。鍛冶屋の屋敷神だったとも言われています。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●1883年(明治16年)10月6日に崇敬者や近隣の住民から奉賛され、現在の場所に移って社殿が建立され、境内が整えられました。同年に本殿・拝殿が建立されました。金光教(こんこうきょう)の信者で、御金神社の創建者・田中庄吉は1883年(明治16年)に京都での金光教の信者組織の公認の為、金光教の祭神・天地金乃神(てんちかねのかみ)に因んで、岐阜県不破郡垂井町の南宮大社(なんぐうたいしゃ)の祭神・金山毘古神(かのやまひこのかみ)を勧請し、京都府知事の認可を得て創建したとも言われています。なお現在、御金神社は金山毘古命(かなやまひこのみこと)を主祭神に天照大御神(あまてらすおおみかみ)・月読命(つきよみのみこと)を祀っています。
金光教は1859年(安政6年)に赤沢文治(あかざわぶんじ・川手文治郎(かわでぶんじろう)・金光大神(こんこうだいじん))が備中国浅口郡大谷村で創始しました。金光教は天地金乃神・生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)を祭神として祀っています。金光教は神と人を結ぶ取次(とりつぎ)により、神・人共栄の世界を顕現することを宗旨としています。なお田中庄吉は大阪を中心に金光教の布教活動を行っていた白神新一郎に入信し、金光教の信者として京都で布教活動を行っていました。
●1888年(明治21年)に御金教会所が設立されたが、1900年(明治33年)の金光教の独立には参加せず、現在は金光教との関係がないそうです。
●1967年(昭和42年)に黄金に輝く鳥居(陵墓鳥居(りょうばとりい))が建立されました。黄金に輝く鳥居は江戸時代(1603年~1868年)中期の1711年(正徳元年)創業の堀金箔粉株式会社の協力により、屋外でも色褪(いろあ)せることがない塗料が施され、黄金色の輝いています。なお神額は氏子・地域の住民から奉納されました。
【御金神社の祭神】
●金山毘古命は国産み・神産みの伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の子神です。五元陽爻(天の位)の第1位の神として、金・銀・銅を初めとする全ての金属類・鉱山・鉱物(鉱石)を護る神とされています。金山毘古命は伊邪那美命が迦具土神(かぐつちのみこと)を産んだ際、その嘔吐物から生まれたとされ、嘔吐物の外形が溶けた鉱物に似ていることから鉱山の神とされました。
●天照大御神は伊邪那岐命と伊邪那美命の子神です。伊邪那岐命が伊邪那美命のいる黄泉の国から生還し、黄泉の穢れから禊を行った際に左の目から生まれたとも言われています。天照大御神は月読尊の夜の食国、素戔嗚尊の根の国に対し、高天原を治めました。天照大御神は皇孫・瓊瓊杵尊に神勅と八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊勾玉からなる三種の神器を授け、葦原中国を治めさせ、日本国の初めになりました。
●月読命は伊邪那岐命と伊邪那美命の子神です。伊邪那岐命が伊邪那美命のいる黄泉の国から生還し、黄泉の穢れから禊を行った際に右の目から生まれたとも言われています。月読命は天照大神の弟神、素戔嗚尊の兄神にあたります。月読命は天照大神の高天原、素戔嗚尊の根の国に対し、夜の食国を治めました。月読命は月を神格化し、夜を統べる神とされています。
【御金神社の歴史 備考】
*参考・・・御金神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ