乙訓寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

乙訓寺の歴史を時代別年表にまとめ
乙訓寺の歴史を簡単にまとめています。乙訓寺は603年(推古天皇11年)頃に第31代・用明天皇の第2皇子・聖徳太子が第33代・推古天皇の勅願によって創建したとも言われています。十一面観世音菩薩を本尊とする伽藍が建立されたと言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)
【継体天皇の弟国宮】
●乙訓寺は寺伝によると第26代・継体天皇(けいたいてんのう)の弟国宮(おとくにのみや・乙訓宮)跡とも言われています。日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)」によると継体天皇が507年(継体天皇元年)に河内(大阪)で即位し、518年(継体天皇12年)3月に都を弟国に移したと言われています。
【乙訓寺の起源・始まり】
●乙訓寺は寺伝によると603年(推古天皇11年)頃に第31代・用明天皇(ようめいてんのう)の第2皇子・聖徳太子(しょうとくたいし)が第33代・推古天皇(すいこてんのう)の勅願によって創建したとも言われています。十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)を本尊とする伽藍が建立されたと言われています。なお発掘調査により、784年(延暦3年)の長岡京造営前の奈良時代(710年~794年)に創建され、設計には法隆寺(ほうりゅうじ)と同じ高麗尺(こうらいしゃく)が使われたと言われています。
【奈良時代(710年頃~794年頃)の歴史・出来事】
●784年(延暦3年)に第50代・桓武天皇(かんむてんのう)が長岡京を造営した際、都の地鎮として大規模に増築されました。京内七大寺の筆頭として大増築されたと言われています。寺域は南北百間以上あり、南北約12メートル・東西約27メートルの講堂は難波京の大安殿と同じ規模だったと言われています。
●785年(延暦4年)9月に桓武天皇の寵臣で、造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺される藤原種継の暗殺事件が起こり、桓武天皇の弟で、皇太子・早良親王(さわらしんのう・崇道天皇(すどうてんのう))が乙訓寺に幽閉された。早良親王は無実を訴える為に十余日絶食し、同年11月8日に淡路国に配流される途中の河内国高瀬橋付近(大阪府守口市)で憤死し、遺骸が淡路国に運ばれて葬られました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
●811年(弘仁2年)11月9日に第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)が太政官符(だいじょうかんぷ)により、真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)を別当(べっとう)に任じられました。弘法大師・空海は荒廃した伽藍を整備し、八幡明神(はちまんみょうじん)の霊告により、本尊・八幡弘法合体大師像を造ったと言われています。また境内に実った蜜柑(みかん)の原種である柑子に漢詩を添え、嵯峨天皇に献上したと言われています。柑子の子孫と伝わる木が現在も境内に植えられています。
●812年(弘仁3年年)10月27日に天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)が弘法大師・空海を訪れ、両界曼荼羅(りょうかいまんだら)の前に密教の法論を交わし、灌頂の儀(かんじょうのぎ)が行われたと言われています。この時が弘法大師・空海と伝教大師・最澄の初対面と言われています。
●897年(寛平9年)に譲位した宇多上皇(第59代・宇多天皇(うだてんのう))が乙訓寺を仮宮である行宮(あんぐう)として堂塔を整備し、法皇寺(ほうおうじ)と号したと言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
●室町時代前期頃に内紛があり、室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が僧徒を追放し、乙訓寺が南禅寺(なんぜんじ)の伯英禅師に与えられて一時禅宗になりました。
●室町時代に衰微したが、12坊あったと言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
●永禄年間(1558年~1570年)に織田信長(おだのぶなが)の兵火によって一時衰微しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●1693年(元禄6年)に江戸幕府5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)が寺領を寄進し、徳川家の祈願寺にしました。徳川綱吉は将軍の祈祷寺である江戸・護持院の住職・隆光(りゅうこう)が乙訓寺の住職になると援助しました。隆光は中興1世として真言宗に改め、乙訓寺法度(はっと)を定め、堂宇を整備しました。なお当時の寺域が8,200余坪あったと言われています。
●1695年(元禄8年)に徳川綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)らの寄進によって堂宇が再建されました。なお江戸時代に本堂(長岡京市指定有形文化財)・鐘楼(長岡京市指定有形文化財)・鎮守八幡社(長岡京市指定有形文化財)・東門(長岡京市指定有形文化財)・山門(長岡京市指定有形文化財)が建立されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●1966年(昭和41年)に長岡第3小学校の建設に伴う発掘調査により、講堂や弘法大師・空海が起居したと言われる単独僧坊跡が確認され、瓦などが出土しました。
●1940年(昭和15年)頃から牡丹が植えられるようになりました。牡丹は本尊・十一面観世音菩薩への供花の為、奈良・長谷寺(はせでら)から贈られた牡丹2株が始まりと言われています。
【乙訓寺の開基である聖徳太子】
聖徳太子は574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇と第29代・欽明天皇の第3皇女で、皇后・穴穂部間人の第2皇子として生まれました。幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。585年(用明天皇元年)に第30代・敏達天皇が崩御すると父・橘豊日皇子が用明天皇に即位したが、 587年(用明天皇2年)に崩御しました。593年(崇峻天皇5年)に叔母で、史上初の女帝である第33代・推古天皇が即位すると皇太子・摂政になり、推古天皇を補佐しました。聖徳太子は内政・外交に尽力し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階、604年(推古天皇12年)に十七条憲法を制定し、607年(推古天皇15年)に遣隋使を派遣しました。また聖徳太子は仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺(法隆寺・広隆寺・法起寺・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺)を創建し、「三経義疏」を著しました。聖徳太子は622年(推古天皇30年)に亡くなりました。
【乙訓寺の歴史 備考】
*参考・・・乙訓寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ