六孫王神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

六孫王神社の歴史を時代別年表にまとめ
六孫王神社の歴史を簡単にまとめています。六孫王神社は963年(応和3年)9月に「六孫王」とも言われた源経基の長子・源満仲が源経基の遺骸を当地に埋葬し、その前に社殿を建立したのが起源です。本殿後方に石積の神廟があります。(時代別年表・重要人物下記参照)
【平安京】
●六孫王神社が建立されている場所は社伝によると第56代・清和天皇(せいわてんのう)の第6皇子・貞純親王(さだずみしんのう)の子で、「六孫王(ろくそんおう)」とも言われた経基流清和源氏の初代・源経基(みなもとのつねもと・経基王)の邸宅・八条亭(はちじょうてい)があった場所です。源経基は牡丹を非常に愛して邸宅に植え、その花園は嵯峨まで続いていったと言われ、社紋は牡丹にしたと伝えられています。
【六孫王神社の起源・始まり】
●六孫王神社は963年(応和3年)9月に源経基の長子・源満仲(みなもとのみつなか)が源経基の遺骸を当地に埋葬し、その前に社殿を建立したのが起源です。本殿後方に石積の神廟があります。源経基は臨終に臨んで、「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言したと言われています。六孫王神社は六ノ宮権現(ろくのみやごんげん)とも言われ、「今昔物語(こんじゃくものがたり)」に「六の宮」と記されています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
●961年(応和元年)12月20日の源経基没後、当地は清和源氏発祥の地として摂津源氏・多田源氏の領地になり、平家打倒の為に挙兵した多田源氏・源頼政(みなもとのよりまさ)が宇治川の戦いで敗死すると平清盛(たいらのきよもり)の別邸・西八条殿(にしはちじょうどの・八条亭)の一部になりました。ただ源経基の墓と神祠は残され、平氏滅亡後に源氏の故地として、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)に与えられました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
●鎌倉時代前期に鎌倉幕府3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)の正室・本覚尼(坊門信子(ぼうもんのぶこ))が暗殺された夫・源実朝の菩提を弔う為に遍照心院(へんじょうしんいん・大通寺(だいつうじ))を創建し、鎮守社になったと言われています。1219年(建保7年)1月27日に源実朝は鎌倉幕府2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)の子・公暁(くぎょう)によって殺害されました。
●鎌倉時代以降に清和源氏発祥の地として武家に崇敬されました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
●1398年(応永5年)に社殿が焼失したと言われています。
●室町時代中期に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が社殿を再建したと言われています。
●1467年(応仁元年)に応仁の乱(おうにんのらん)が起こり、焼失して荒廃したと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●1700年(元禄13年)から江戸幕府が現在の本殿(市指定有形文化財)・拝殿(市指定有形文化財)・廻廊(市指定有形文化財)・唐門(市指定有形文化財)を再建しました。遍照心院(大通寺)の南谷照什(なんこくしょうじゅう)が水戸黄門(みとこうもん)とも言われる常陸水戸藩2代藩主・徳川光圀(とくがわみつくに)に働き掛け、清和源氏の宗家を自認する徳川将軍家を動かし、松平紀伊守が奉行として再建されました。再建は元禄年間(1688年~1704年)に始まり宝永年間(1704年~1711年)に完成したことから例祭は宝永祭と言われるようになりました。
●1701年(元禄14年)に神階・正一位(しょういちい)と権現号(ごんげんごう)を賜りました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、大通寺と分離しました。江戸幕府の滅亡とともに衰微しました。
●1873年(明治6年)に村社に列せられ、1881年(明治14年)に郷社に昇格しました。
●1886年(明治19年)に内務省下賜金や信徒の勧進などにより、社殿が修理されたと言われています。
●1911年(明治44年)に大通寺が東海道本線の鉄道用地になったことから南区西九条に移転しました。
●1964年(昭和39年)に境内が東海道新幹線の用地になったことから買収されて狭くなりました。
【六孫王神社の祭神である源経基】
源経基は916年(延喜16年)頃に第56代・清和天皇の第6皇子・貞純親王と右大臣・源能有の娘・源柄子の間に長男として生まれました。938年(承平8年)に武蔵権守・権守興世王とともに武蔵介として関東に下向したが、在地の豪族である足立郡司・武蔵武芝と対立し、平将門が調停して対立を収めたが、武蔵武芝・平将門らを疑って京に逃げ帰って朝廷に訴えました。しかし讒言の罪によって左衛門府に禁固されたが、939年(天慶2年)に平将門の乱が起こると許されて従五位下に叙され、940年(天慶3年)に征東軍の副将軍として出陣しました。世人からは「介経基未だ兵道に練れず」と嘲笑されたとも言われています。途中で平将門の乱が平定されると京に戻り、941年(天慶4年)に小野好古に従って追捕凶賊使として藤原純友の乱の平定に向かい、藤原純友の家来・桑原生行を捕らえ、京に連行しました。その後武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司や大宰大弐・鎮守府将軍などを歴任しました。源経基は和歌も巧みで、「拾遺和歌集」に2首が採録されています。なお源経基は961年(応和元年)に亡くなりました。
【六孫王神社の歴史 備考】
*参考・・・六孫王神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ