哲学の道と田邊元(たなべはじめ)
哲学の道と田邊元(たなべはじめ)
哲学の道は1890年(明治23年)に琵琶湖疏水分線が完成した際に管理用道路として整備されました。哲学の道は哲学者である西田幾多郎・田邊元らが散策するようになると「哲学の小径」・「思索の道」などと言われるようになりました。
【哲学の道桜見ごろ(例年時期)・2024年開花満開予想】
哲学の道の桜見ごろは例年4月上旬頃です。ただ桜の開花状況や見ごろ(満開)はその年の気候などによって多少前後することがあります。なお2025年1月下旬頃から京都の桜開花・桜満開・桜見ごろ情報を発信します。
哲学の道桜見ごろ
【哲学の道 歴史・簡単概要】
哲学の道は琵琶湖疏水分線沿いで、北側の銀閣寺道交差点付近の浄土寺橋から南側の若王子神社付近の若王子橋を結ぶ延長約2キロの小道です。琵琶湖疏水は京都府知事・北垣国道が京都近代化政策の一環として計画し、1890年(明治23年)に滋賀県大津市三保ヶ崎から鴨川までの第1疏水と蹴上から分岐する疏水分線が完成し、1912年(明治45年)に第2疏水が完成しました。哲学の道は1890年(明治23年)に完成した琵琶湖疏水分線の管理用道路が起源です。
【哲学の道と田邊元(たなべはじめ)】
哲学の道は1890年(明治23年)に琵琶湖疏水(びわこそすい)分線が完成した際に管理用道路として整備されました。その後周辺に文人が多く住むようになると「文人の道」と言われ、いずれも京都学派を代表する哲学者である西田幾多郎(にしだきたろう)・田邊元(たなべはじめ)らが散策するようになると「哲学の小径」・「散策の道」・「思索の道」・「疏水の小径」などと言われるようになりました。田邊元は1919年(大正8年)に西田幾多郎の招きによって京都帝国大学文学部の助教授に就任し、1945年(昭和20年)3月に京都帝国大学文学部の教授を退官し、同年7月に群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢に隠棲しました。田邊元は西田幾多郎の弟子で宮城県仙台市に住んでいた三宅剛一(みやけごういち)らとの書簡のやり取りが残されており、上京区富小路丸太町下ル・上京区吉田上大路・左京区吉田中大路町に住んでいた時期がありました。田邊元は左京区吉田中大路町に住んでいた時期に哲学の道を散策していたも言われています。また田邊元はいずれも京都学派の哲学者である務台理作・山内得立・久松真一・三木清・天野貞祐らと同じように左京区田中上柳町にあった西田幾多郎の家も度々訪れ、その際に哲学の道を散策していたも言われています。ちなみに近衛文麿(このえふみまろ)は千代子夫人と結婚する際、夫人を伴って西田幾多郎の家に挨拶に訪れました。
【田邊元 哲学の道】
田邊元は1885年(明治18年)2月3日に開成中学校の校長・田辺新之助の子として生れました。1904年(明治37年)に第一高等学校理科を首席で卒業し、東京帝国大学理科大学数学科に入学し、その後哲学科に転科し、1908年(明治41年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業しました。東京第四中等学校の教師を経て、1913年(大正2年)に東北帝国大学理学部の講師に就任し、1916年(大正5年)にアンリ・ポアンカレの「科学の価値」を翻訳しました。1918年(大正7年)に京都帝国大学で「数理哲学研究」によって文学博士号を取得し、1919年(大正8年)に西田幾多郎の招きによって京都帝国大学文学部の助教授に就任し、1922年(大正11年)~1924年(大正13年)にヨーロッパに留学し、1927年(昭和2年)に京都帝国大学文学部の教授に就任しました。1928年(昭和3年)にマックス・プランクの「物理学的世界像の統一」を翻訳し、1935年(昭和10年)に「種の論理と世界図式」を発表し、1945年(昭和20年)に京都帝国大学文学部の教授を退官し、群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢に隠棲しました。田邊元は「カントの目的論」・「懴悔道としての哲学」・「政治哲学の急務」・「種の論理の弁証法」・「実存と愛と実践」・「ヴァレリイの芸術哲学」などを刊行しました。田邊元は新カント学派の影響を受け、西田幾多郎との相互批判の中で独自の思想を形成して田辺哲学と称され、京都学派の基礎を築きました。なお田邊元は1962年(昭和37年)4月29日に亡くなりました。
【哲学の道と田邊元(たなべはじめ)】
*京都には多くの桜名所があり、その桜見ごろを下記リンクから確認できます。
京都桜見ごろ2025(清水寺・哲学の道・原谷苑・・・)