車折神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

車折神社の歴史を時代別年表にまとめ
車折神社の歴史を簡単にまとめています。車折神社は1189年(文治5年)に清原頼業が亡くなり、清原家の領地だった現在の場所に廟が建立されたのが起源と言われています。その後清原家の菩提寺となる宝寿院が創建されました。(時代別年表・重要人物下記参照)
【清原氏】
●清原氏は第40代・天武天皇(てんむてんのう)の皇子・舎人親王(とねりしんのう)の子孫で、一族には三十六歌仙・梨壺の五人に数えられた清原元輔、その娘で、「枕草子(まくらのそうし)」の作者・清少納言(せいしょうなごん)、清原夏野(きよはらのなつの)らがいます。
【車折神社の起源・始まり】
●車折神社は1189年(文治5年)に漢学者・儒学者であった清原頼業(きよはらのよりなり)が亡くなり、清原家の領地だった現在の場所に廟が建立されたのが起源と言われています。その後清原家の菩提寺(ぼだいじ)となる宝寿院(ほうじゅいん)が創建されました。宝寿院の寺号は清原頼業の法名・宝寿院殿に由来しています。なお清原頼業は生前から桜を大変愛した為、廟に多くの桜が植えられたことから「桜の宮」とも言われていたそうです。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
●鎌倉時代前期に第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう)から神号「車折大明神(くるまざだいみょうじん)」を賜り、神階・正一位(しょういちい)を贈られました。後嵯峨天皇が嵐山の大堰川(おおいがわ・桂川))に遊幸した際、社前で牛車の轅(ながえ)が折れ、神号を贈ったと言われています。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
●1339年(延元4年・暦応2年)に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)が南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)を弔う為に天龍寺(てんりゅうじ)を創建すると宝寿院がその末寺になりました。足利尊氏は後醍醐天皇から偏諱を受けて「尊氏」と改名したが、後醍醐天皇が建武の新政を開始すると対立するようになり、後醍醐天皇から足利尊氏追討の命が出されました。1339年(延元4年・暦応2年)に後醍醐天皇が吉野で崩御すると夢窓国師(むそうこくし)・夢窓疎石(むそうそせき)の強い勧めにより、後醍醐天皇を弔う天龍寺を創建しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●江戸時代に商売繁盛の神として信仰されました。
●1752年(宝暦2年)に本殿が再建されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●明治維新後の神仏分離令により、宝寿寺から独立したが、荒廃しました。その後文人画家・富岡鉄斎(とみおかてっさい)が宮司になって復興しました。なお富岡鉄斎が生前に使用した筆2,000本以上が富岡鉄斎の筆塚に納められています。
●明治時代初期に近代社格制度で村社に列せられました。
●1910年(明治43年)に京福電鉄が開通した際に境内を無償提供し、車折神社駅を誘致しました。
●1928年(昭和3年)に第124代・昭和天皇即位を記念し、例祭の延長神事として三船祭が創始されました。
●1957年(昭和32年)に古来から芸能・芸術の祖神として崇敬される祭神・天宇受売命(あめのうずめのみこと)を末社・地主神社から分祀し、芸能神社が創健されました。
●1988年(昭和63年)に拝殿が再建されました。
●2014年(平成26年)に本殿を改修しました。
【車折神社の祭神・清原頼業】
清原頼業は1122年(保安3年)に清原祐隆と長門守清信の娘の子として生まれました。14歳で学問を志したと言われています。1142年(康治元年)に少外記になり、1150年(久安6年)に関白・藤原頼長の推挙により、明経道の教官である大学直講になり、1156年(保元元年)に記録所寄人・助教になり、1166年(仁安元年)頃に詔勅の訂正や上奏文の起草などを行う大外記になり、その後穀倉院別当などを歴任し、正五位上に叙されました。また1175年(安元元年)に明経博士になり、1179年(治承3年)に高倉天皇侍読になり、明経道の復興に尽力しました。清原頼業は関白・藤原頼長、関白・九条兼実などに実務と学識を認められました。なお清原頼業は1189年(文治5年)に亡くなりました。
【車折神社の歴史 備考】
*参考・・・車折神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ













