黄梅院(アクセス・見どころ・・・)大徳寺

黄梅院
黄梅院(アクセス・見どころ・歴史概要・料金・・・)情報を紹介しています。黄梅院には千利休の師である茶人・武野紹鴎作と言われる四帖半の茶室「昨夢軒(さくむけん)」があります。なお千利休は大徳寺の山門に利休の像を安置した為、関白・豊臣秀吉の怒りを買って、自決の原因となったと言われています。
【黄梅院 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市北区紫野大徳寺町83-1
最寄り駅・バス停・・・大徳寺前(徒歩約5分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から黄梅院は101系統(B2乗り場)、205系統(B3乗り場)、206系統(A3乗り場)
*四条河原町からは12系統、205系統
*四条烏丸からは12系統
*河原町丸太町からは204系統、205系統
路線・時刻表・運賃チェック
【黄梅院 拝観時間・時間(要確認)】
10:00~16:00
【黄梅院 拝観料金・料金(要確認)】
2000円(呈茶・法話・拝観)
【黄梅院 歴史・簡単概要】
黄梅院(おうばいいん)は戦国時代(1493年~1590年)の1562年(永禄5年)に織田信長(おだのぶなが)が初めて入洛した際、父・織田信秀(おだのぶひで)の追善菩提の為に京都所司代・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に命じ、大徳寺(だいとくじ)98世・春林宗俶(しゅんりんそうしゅく)を開山として小庵・黄梅庵を建立したのが起源です。黄梅庵の庵名は弘忍(ぐにん)大満禅師ゆかりの地である中国湖北省黄梅県破頭山の東禅寺に由来しています。安土桃山時代(1573年~1603年)の1582年(天正10年)6月2日に明智光秀(あけちみつひで)が主君・織田信長に対して謀反・本能寺の変(ほんのうじのへん)を起こし、織田信長が自刃しました。同年10月10日に関白・豊臣秀吉が織田信長の四男または五男で、豊臣秀吉の養子・羽柴秀勝(はしばひでかつ)を喪主として大徳寺で葬儀を行いました。1582年(天正10年)頃から豊臣秀吉が黄梅庵を織田信長の塔所として増改築しました。ただ主君の塔所としては「小なり」として、1583年(天正11年)の一周忌に間に合うように大徳寺の塔頭(たっちゅう)・総見院(そうけんいん)を創建しました。1584年(天正12年)頃に茶人・千利休(せんのりきゅう)が豊臣秀吉の希望により、池泉回遊式庭園「直中庭(じきちゅうてい)」を作庭したと伝えられています。豊臣秀吉の希望によって瓢箪(ひょうたん)を象った池が手前に配され、加藤清正(かとうきよまさ)が朝鮮出兵の際に持ち帰った朝鮮灯籠が据えられています。桃山時代に大徳寺112世・玉仲宗琇(ぎょくちゅうそうしゅう)が入寺し、小早川隆景(こばやかわたかかげ)の帰依を受けて堂宇を整備しました。小早川隆景は1588年(天正16年)に本堂(重要文化財)、1589年(天正17年)に庫裏(重要文化財)・表門、天正年間(1573年~1592年)に鐘楼を建立しました。1589年(天正17年)に名称を黄梅院に改めました。1592年(天正19年)に加藤清正が朝鮮出兵の際に持ち帰ったと言われる梵鐘(ぼんしょう)を寄進しました。桃山時代から江戸時代(1603年~1868年)に小早川家の宗家・毛利家に外護され、毛利氏の京都における菩提寺(ぼだいじ)になりました。1652年(承応元年)頃に書院「自休軒(じきゅうけん)」が建立されました。
黄梅院は臨済宗大徳寺派・大徳寺の塔頭です。
*参考・・・黄梅院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia
【黄梅院 見どころ・文化財(非公開の場合あり)】
黄梅院の見どころは重要文化財である本堂と庭園・直中庭(じきちゅうてい)です。直中庭には加藤清正が朝鮮から持ち帰った朝鮮灯籠が据えられています。
重要文化財・・・本堂、庫裏、紙本墨画竹林七賢図 伝雲谷等顔筆、紙本墨画芦雁図 伝雲谷等顔筆、紙本墨画山水図 伝雲谷等顔筆
【黄梅院 連絡先(現在確認中)】*電話は控えて下さい。迷惑になります。
電話番号・・・+81-75-492-4539
【黄梅院 備考(アクセス・御朱印・駐車場・・・)】
大徳寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報
大徳寺見どころ(方丈・山門など)
【黄梅院 おすすめ散策ルート】
黄梅院からのおすすめ散策ルートは大徳寺を経由し、西側にある金閣寺(鹿苑寺)に向かうルートです。20分ほど散策すれば、世界遺産である金閣寺に行くことができ、京都観光・旅行を楽しむことができます。なお黄梅院周辺には大徳寺だけでなく、瑞峯院・大仙院・芳春院・黄梅院・興臨院・龍光院などもあり、それらを散策してから金閣寺に向かうのもいいかもしれません。