落柿舎(拝観料・見どころ・アクセス・歴史概要・・・)

落柿舎
落柿舎(アクセス・見どころ・歴史概要・料金・・・)情報を紹介しています。落柿舎は松尾芭蕉の弟子・向井去来(むかいきょらい)が別荘として使用されていた草庵です。「落柿舎記」によると草庵の周囲には40本の柿の木があり、その柿の実が一夜の内にほとんど落ちたことから落柿舎と言われるようになりました。
【落柿舎 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町
最寄り駅・バス停・・・嵯峨小学校前(徒歩約7分)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から落柿舎は28系統(D3乗り場)
*四条河原町からは11系統
*四条烏丸からは11系統
*河原町丸太町からは93系統
路線・時刻表・運賃チェック
*JR山陰本線の場合、最寄り駅は嵯峨嵐山駅(徒歩約15分)
*嵐電(京福電鉄)嵐山線の場合、最寄り駅は嵐山駅(徒歩約15分)
【落柿舎 拝観時間・時間(要確認)】
9:00~17:00(3/1~12/31)
9:00~16:00(1/1~2/末日)
12/31、1/1は休日
【落柿舎 拝観料金・料金(要確認)】
個人
大人・大学生・高校生・中学生200円、小学生無料
団体
大人200円、大学生・高校生・中学生100円
【落柿舎 歴史・簡単概要】
落柿舎(らくししゃ)は江戸時代(1603年~1868年)中期の1685年(貞享2年)~1686年(貞享3年)に俳諧師・松尾芭蕉(まつおばしょう)の弟子で、蕉門十哲に数えられた俳諧師・向井去来(むかいきょらい)が入手して営んだ草庵が起源と言われています。元々、草庵は豪商が建てたもので、正確な場所は不明です。1689年(元禄2年)に「おくのほそ道」の旅に出た松尾芭蕉が12月に初めて訪れ、12月24日に向井去来・松尾芭蕉が鉢叩きを聞きました。1689年(元禄2年)頃に庭に植えられていた40本の柿の木の実が一夜にしてほとんどが落ちたことが庵名「落柿舎」の由来になっています。1691年(元禄4年)に松尾芭蕉が再度訪れ、4月18日から5月4日まで滞在し、「嵯峨日記(さがにっき)」を記しました。5月2日に向井去来・松尾芭蕉・河合曽良(かわいそら)は大堰川(おおいがわ・桂川))で船遊びを楽しみました。1694年(元禄7年)5月22日に松尾芭蕉が三度訪れ、同年10月12日に大坂南御堂前の花屋仁右衛門宅で亡くなりました。向井去来は「柿主や こずゑは近き あらし山」、松尾芭蕉は「嵐山 藪の茂りや 風の筋」・「六月や 峯に雲置 あらし山」と詠みました。1704年(宝永元年)に向井去来が亡くなると荒廃しました。1770年(明和7年)に向井去来の親族で、蝶夢(ちょうむ)門下の俳諧師・井上重厚(いのうえじゅうこう)が天龍寺(てんりゅうじ)の塔頭(たっちゅう)・弘源寺(こうげんじ)跡に再建し、捨庵(すてあん)と称したとも言われています。明治時代(1868年~1912年)初期に再建されたと言われています。1937年(昭和12年)に新聞記者で、俳人・永井瓢齋(ながいひょうさい)、工藤芝蘭子(くどうしらんし)ら8人が落柿舎を買い取り、保存会を設立したと言われています。
*参考・・・落柿舎(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【落柿舎 見どころ・文化財(非公開の場合あり)】
落柿舎の見どころは入口に掛けてある蓑(みの)と笠(かさ)です。蓑と笠は本来庵主の在庵と不在を示すが、現在は柿舎の象徴として常に掛かっています。
【落柿舎 行事・イベント(要確認)】
●去来祭は毎年スポーツの日に行われています。去来祭では祠前で祭事を行います。その後江戸時代前期の俳人・向井去来と江戸時代前期の俳人・松尾芭蕉研究者による講演や俳句会も行われます。
落柿舎去来祭
【落柿舎 連絡先(現在確認中)】*電話は控えて下さい。迷惑になります。
電話番号・・・+81-75-881-1953
【落柿舎 備考(アクセス・御朱印・駐車場・・・)】
*京都バスの場合、京都駅からは72系統(C6乗り場)、四条河原町・三条京阪からは61系統、62系統、64系統、最寄りのバス停は嵯峨小学校前(徒歩約7分)
京都バス・アクセスダイヤ
【落柿舎 おすすめ散策ルート】
落柿舎からのおすすめ散策ルートは野宮神社・竹林の道(竹林の小径)を経由し、天龍寺・渡月橋・嵐山に向かうルートです。20分ほど散策すれば、世界遺産である天龍寺に行くことができ、京都観光・旅行を楽しむことができます。なお落柿舎周辺には二尊院・常寂光寺・祇王寺・化野念仏寺などもあり、それらを散策してから天龍寺・渡月橋に向かってもいいかもしれません。