蓮華王院本堂・三十三間堂見どころ(長さ・大きさ・・・)

三十三間堂見どころ

三十三間堂

三十三間堂(蓮華王院本堂)を解説します。三十三間堂(蓮華王院本堂)は1165年(長寛2年)に後白河上皇が平清盛に資材協力を命じて創建したが、1249年(建長元年)に焼失し、1266年(文永3年)に後嵯峨上皇が再建しました。(詳細下記参照)

【三十三間堂以外の情報】
三十三間堂見どころ(蓮華王院本堂・千手観音など)

【三十三間堂 基礎知識】

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)・蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)は平安時代の988年(永延2年)に太政大臣・藤原為光(ふじわらのためみつ)が造営した私邸があった場所とも言われています。三十三間堂は1165年(長寛2年)に後白河上皇(第77代・後白河天皇)が平清盛(たいらのきよもり)に資材協力を命じ、離宮・法住寺殿の一画に創建したのが起源です。ただ1249年(建長元年)に焼失し、1266年(文永3年)に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)が本堂(三十三間堂)のみを再建しました。
京都・三十三間堂歴史(起源・・・)

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【概要の解説・三十三間堂】

  • 概要・・・三十三間堂(蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう))は三千院(さんぜんいん)・青蓮院(しょうれんいん)・曼殊院(まんしゅいん)・毘沙門堂(びしゃもんどう)とともに京都天台五門跡に数えられた妙法院(みょうほういん)の境外仏堂です。境外仏堂は仏像を安置し、礼拝供養する為に境内外に単独で建てられた仏堂のことです。蓮華王院本堂は内陣の柱間が「33」あることから一般的に三十三間堂と言われています。
  • 妙法院・・・妙法院は比叡山三千坊と言われる比叡山上にあった僧侶の住坊が起源と言われています。初代門主は天台宗の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄とされています。

【歴史の解説・三十三間堂】

  • 歴史・・・三十三間堂(蓮華王院本堂)は平安時代中期の988年(永延2年)に太政大臣・藤原為光(ふじわらのためみつ)が造営した私邸があった場所とも言われています。その後1165年(長寛2年)に約30年に渡って院政を行った後白河上皇(第77代・後白河天皇)が太政大臣・平清盛(たいらのきよもり)に資材協力を命じ、離宮(院御所)・法住寺殿(ほうじゅうじどの)の一画に三十三間堂を創建しました。三十三間堂は当初五重塔などの伽藍を持つ本格的な寺院だったと言われています。しかし鎌倉時代中期の1249年(建長元年)の市中からの火災によって焼失し、1266年(文永3年)に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)が三十三間堂のみを再建しました。ちなみに三十三間堂は洛中にある建物の中では千本釈迦堂(大報恩寺)の本堂に次いで古いとも言われています。その後室町時代に室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が修復したと言われています。なお三十三間堂の正面7間の向拝(こうはい)は江戸時代前期の1650年(慶安3年)に付けられたと言われています。
  • 後白河天皇・・・後白河天皇は1127年(大治2年)に第74代・鳥羽天皇(とあてんのう)の第4皇子として生まれ、1155年(久寿2年)の第76代・近衛天皇(このえてんのう)の崩御によって即位し、1158年(保元3年)に第78代・二条天皇(にじょうてんのう)に譲位して上皇になり、1169年(仁安4年)に出家して法皇になり、浄土宗の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)に帰依したと言われています。後白河天皇は一部の期間を除き、二条天皇、第79代・六条天皇(ろくじょうてんのう)、第80代・高倉天皇(たかくらてんのう)、第81代・安徳天皇(あんとくてんのう)、第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の時代、約30年に渡って院政を行い、1192年(建久3年)に崩御しました。なお三十三間堂の正式名称である蓮華王院本堂は後白河天皇の前世が熊野の修行僧・蓮華坊と言われていたことに由来しています。

【名称の解説・三十三間堂】

  • 名称・・・三十三間堂の名称は内陣の柱間が「33」あることに由来しています。三十三間堂は間面記法(けんめんきほう)で三十三間四面、内陣の柱間が「33」で、周囲四面にそれぞれ「1」間の庇(廂)があり、外部から見ると柱間が「35」に見えます。なお「33」は観音菩薩(かんのんぼさつ)に縁のある数字で、「法華経」などでは観音菩薩が33の姿(三十三応化身(さんじゅうさんおうげしん))に変じ、衆生を救うと説かれています。
  • 観音菩薩・・観音菩薩(観世音菩薩・かんぜおんぼさつ)は菩薩の一尊です。観音菩薩は世間の人々の声を聞き、人々の求めに応じて救いの手を差し伸べる慈悲深い菩薩とされ、救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)とも言われています。
  • 三十三応化身・・・三十三応化身には仏身(ぶっしん)・梵王身(ぼんおうしん)・帝釈身(たいしゃくしん)・自在天身(じざいてんしん)・毘沙門身(びしゃもんしん)・夜叉身(やしゃしん)・阿修羅身(あしゅらしん)・迦楼羅身(かるらしん)などがあります。

【大きさ・色彩の解説・三十三間堂】

  • 大きさ・色彩・・・三十三間堂の大きさは南北約120メートル・奥行き約22メートル・高さ約16メートルです。三十三間堂は木造建築物の中では世界一長いとも言われています。なお三十三間堂は1930年(昭和5年)の修理の際、かつて花や雲文様の極彩色だったたことが分かりました。
  • 建築様式・・・三十三間堂は和様(わよう)で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。堂内は屋台骨(やたいぼね)が柱間を2本の梁(はり)で繋ぐ二重虹梁(にじゅうこうりょう)になっています。外屋の上部も内柱・外柱に二重の梁を掛けています。

【千手観音の解説・三十三間堂】

  • 千手観音・・・三十三間堂は高さ約3・3メートルの本尊・千手観音坐像(国宝)、その左右の階段に高さ1.6メートル前後の1,000体の千手観音立像(国宝)と本尊の背後に寄進の為に日本各地を回った行像尊と言われる1,001体目の千手観音立像(国宝)を安置しています。なお千手観音坐像は1254年(建長6年)に仏師・湛慶(たんけい)が造仏しました。また1,001体の千手観音立像の内の124体が平安時代、876体が鎌倉時代、1体が室町時代に造仏されました。
  • 千手・・・千手観音の千手の手はいかなる衆生をあまねく救済するという慈悲と力の大きさを表していると言われています。千手観音は六観音の一尊です。観音菩薩は人々の救いを求める声を聞き、その苦悩から救済すると言われています。観音菩薩は救う相手の姿に応じて千変万化の相となると言われています。「観音経」では様々に姿を変える三十三応化身が説かれています。

【通し矢の解説・三十三間堂】

  • 通し矢・・・三十三間堂で最初に行われた通し矢は確証はなく、伝説の域を出ないそうだが、平安時代後期の1156年(保元元年)頃に熊野・蕪坂源太(かぶさかげんた)が行ったのが起源とも言われています。蕪坂源太は狩りを職業とし、二町(約218メートル)先を走る鹿さえも外さなかったとも言われているそうです。
  • 明確・・・三十三間堂で行われた通し矢の記録が明確に残っているのは江戸時代前期の1651年(慶安4年)に出された「年代矢数帳」によると江戸時代初期の1606年(慶長11年)の朝岡平兵衛(あさおかへいべえ)の記録が最初だそうです。

三十三間堂通し矢

【七不思議の解説・三十三間堂】

  • 七不思議・・・三十三間堂と三十三間堂近くの養源院(ようげんいん)・妙法院の不思議を集めた七不思議には棟木の柳(むなぎのやなぎ)があります。棟木の柳は三十三間堂を創建した頭痛持ちの後白河上皇に由来しています。後白河上皇には前世が熊野の修行僧・蓮華坊で、その髑髏が熊野・岩田川に沈み、髑髏を貫いて柳が生え、風に揺られて柳が髑髏に当たることが頭痛の原因になっているという夢告がありました。そこで髑髏を三十三間堂に安置されている観音像の頭に納めて祀ると頭痛が平癒し、柳は三十三間堂の棟木に使われたとされています。頭痛平癒や棟木の柳は浄瑠璃・三十三間堂棟木由来などで世間に広まったが、実際には柳は三十三間堂の棟木には使われていないそうです。
  • 行事・・・三十三間堂は後白河上皇から頭痛山平癒寺とも言われています。また三十三間堂では後白河上皇の頭痛平癒にあやかる楊枝のお加持(やなぎのおかじ)が例年1月に行われています。

【蓮華王院本堂・三十三間堂見どころ 備考】
*参考・・・三十三間堂(見どころ・歴史・・・)ホームページ

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