三十三間堂・蓮華王院本堂の完全ガイド|規模・通し矢などを解説

三十三間堂(Sanjusangen-do Temple)

三十三間堂・蓮華王院本堂の完全ガイド

三十三間堂の蓮華王院本堂を徹底解説します。蓮華王院本堂は一般的に三十三間堂と言われています。蓮華王院本堂は1165年(長寛2年)に後白河上皇が建て、その後焼失し、1266年(文永3年)に後嵯峨上皇が再建しました。なお三十三間堂では例年1月に通し矢が行われています。(詳細下記参照)

三十三間堂見どころ(蓮華王院本堂・千手観音など)

【蓮華王院本堂(三十三間堂)概要・概略】

三十三間堂は正式名称を蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)と言います。蓮華王院本堂の「蓮華王」は千手観音(せんじゅかんのん)の別称で、三十三間堂は本尊・千手観音坐像(国宝)や1,001体の千手観音立像(国宝)などを安置しています。合計1,032体の仏像が安置されています。平安時代(794年~1185年)後期に仏教の開祖であるお釈迦様(おしゃかさま)の入滅後から2千年目以降に仏法が廃れるという末法思想(まっぽうしそう)が広がり、慈悲が広く、優れた現世利益を持つ観音菩薩が信仰されるようになり、三十三間堂が建てられました。なお三十三間堂は妙法院(みょうほういん)の境外仏堂です。
●千手観音は千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)の略称です。千手観音は観音菩薩の変化で、六観音に数えられています。観音菩薩は救う相手の姿に応じて千変万化の相となると言われ、仏典「観音経」では様々に姿を変える変化身三十三身(三十三応化身)が説かれています。千手観音は観音菩薩が世の一切衆生を救う為、千の手と千の目を得たいと誓って得た姿で、千の手と千の目は慈悲と救済が無量無辺であることを表わしています。また千手の手はいかなる衆生をあまねく救済するという慈悲と力の大きさを表していると言われています。千手観音の像容は42の手を持ち、胸前で合掌する2本の手を除き、40本の手がそれぞれ天上界から地獄までの25の世界を救うとされています。
●妙法院は比叡山三千坊と言われる比叡山上にあった僧侶の住坊が起源と言われています。初代門主は天台宗の宗祖で、延暦寺開山である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)とされています。

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【歴史・時代の解説】

三十三間堂は1165年(長寛2年)に約30年に渡って院政を行った後白河上皇(第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう))が太政大臣・平清盛(たいらのきよもり)に資材協力を命じ、離宮(院御所)・法住寺殿(ほうじゅうじどの)の一画に建てました。当初、五重塔などの伽藍を持つ本格的な寺院だったと言われています。その後1249年(建長元年)に市中からの火災で焼失し、1266年(文永3年)に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう))が三十三間堂のみを再建しました。なお三十三間堂は洛中にある建物の中では千本釈迦堂(大報恩寺)の本堂に次いで古い建物と言われています。
●後白河天皇は1127年(大治2年)に鳥羽天皇の第4皇子として生まれました。1155年(久寿2年)に近衛天皇が崩御すると即位しました。1158年(保元3年)に二条天皇に譲位し、1169年(仁安4年)に出家して法皇になり、浄土宗の宗祖・法然上人に帰依したと言われています。後白河天皇は一部の期間を除き、二条天皇・六条天皇・高倉天皇・安徳天皇・後鳥羽天皇の時代、約30年に渡って院政を行いました。後白河天皇は1192年(建久3年)に崩御しました。
●後嵯峨天皇は1220年(承久2年)に土御門天皇の第2皇子として生まれました。1221年(承久3年)に鎌倉幕府2代執権・北条義時の追討を謀った承久の乱が起こり、父が土佐に流されました。1242年(仁治3年)に四条天皇が崩御すると即位しました。その後関白を近衛兼経から二条良実に交替させ、西園寺実氏の娘を中宮として、実力者の西園寺家と婚姻関係を結ぶことで立場の安定化させました。1246年(寛元4年)に後深草天皇に譲位し、院政を開始しました。後嵯峨天皇は鎌倉幕府の意向を重視し、要請に応じて皇子・宗尊親王を最初の宮将軍としました。後嵯峨天皇は1272年(文永9年)に崩御しました。

【名前・名称の解説】

三十三間堂の名前は間面記法(けんめんきほう)で「三十三間四面」になることに由来しています。内陣(堂内)の柱間が「33」、周囲四面にそれぞれ「1」間の庇(ひさし・廂)があり、外部から見ると柱間が「35」になっています。三十三間堂は桁行(けたゆき)三十五間・梁間(はりま)五間になります。なお「33」は観音菩薩に縁のある数字で、仏典「法華経(ほけきょう)」などでは観音菩薩が33の姿(変化身三十三身(へんげしんさんじゅうさんしん・三十三応化身))に変じ、衆生を救うと説かれています。
●変化身三十三身(三十三応化身)には仏身・辟支仏身・声聞身・梵王身・帝釈身・自在天身・大自在天身・天大将軍身・毘沙門身などがあります。
●三十三間堂の「間」は長さを表す単位ではなく、柱と柱の間を表す社寺建築の建築用語です。三十三間堂の内陣には34本の柱があり、柱と柱の間が33間になります。外部から見ると36本の柱があり、柱と柱の間が35間になります。

【規模・様式の解説】

三十三間堂は南北約120メートル・奥行き約22メートル・高さ約16メートルです。蓮華王院本堂は木造建築物の中では世界一長いとも言われています。なお三十三間堂は1930年(昭和5年)の修理の際、かつて花や雲文様の極彩色だったたことが分かりました。
●三十三間堂は和様(わよう)で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。堂内は屋台骨(やたいぼね)が柱間を2本の梁(はり)で繋ぐ二重虹梁(にじゅうこうりょう)になっています。外屋の上部も内柱・外柱に二重の梁を掛けています。なお三十三間堂は砂と粘土を層状に堆積した地盤の上に建てられ、地震の震動を吸収する耐震構造になっています。
●三十三間堂と周辺の寺院の不思議を集めた七不思議には棟木の柳があります。三十三間堂を建てた後白河上皇は前世が熊野の修行僧である蓮華坊で、その髑髏が熊野・岩田川に沈み、髑髏を貫いて柳が生え、風に揺られて柳が髑髏に当たることが頭痛の原因になっているという夢告がありました。そこで髑髏を三十三間堂に安置されている観音像の頭に納めて祀ると頭痛が平癒し、柳は三十三間堂の棟木に使われたとされています。ただ実際には柳は三十三間堂の棟木には使われていないそうです。

【千手観音像の解説】

三十三間堂は中央に高さ約3・3メートルの本尊・千手観音坐像(国宝)、その左右10段の階段に各50体ずつ高さ1.6メートル前後の1,000体の千手観音立像(国宝)と本尊の背後に寄進の為に日本各地を回った行像尊と言われる1,001体目の千手観音立像(国宝)を安置しています。本尊・千手観音坐像は1254年(建長6年)に仏師・湛慶(たんけい)が造仏しました。また1,001体の千手観音立像の内の124体が平安時代、876体が鎌倉時代、1体が室町時代に造仏されました。湛慶は1,001体の千手観音立像の内、10号・20号・30号・40号・520号・530号・540号・550号・560号の9体も造仏し、堂内の最前列に安置されています。(1,000体の千手観音立像の内、3体が東京国立博物館、各1体が京都国立博物館・奈良国立博物館に寄託されています。)
●湛慶は1173年(承安3年)に仏師・運慶の長男として生まれました。湛慶は祖父・康慶、父・運慶が参加した東大寺再興の造仏事業に加わり、1212年(建暦3年)に最高の僧綱位である法印に叙せられました。1224年(貞応2年)に父が亡くなると七条仏所を率いました。湛慶は父のような豪快さに欠けるが、運慶の完成した写実様式に運慶とともに鎌倉時代を代表する快慶の優雅な作風や宋朝様式を取り入れ、洗練された温和な表現を得意とし、手堅い表現に特徴があると言われています。

【通し矢・全国弓道大的大会の解説】

通し矢は三十三間堂西側の南端から120メートルの距離を軒天井に当たらないように弓で矢を射通し、その通った矢数を競ったものです。通し矢には大矢数(おおやかず)・百射(ひゃくい)・千射(せんい)などがあり、大矢数では夕刻に射始め、翌日の同刻までの一昼夜で何本通るかを競いました。通し矢は起源が明確ではなく、桃山時代(1583年~1603年)には既に行なわれていたと伝えられています。ちなみに通し矢は伝説の域を出ないが、1156年(保元元年)頃に熊野・蕪坂源太(かぶさかげんた)が行ったのが起源とも言われています。蕪坂源太は狩りを職業とし、二町(約218メートル)先を走る鹿さえも外さなかったとも言われているそうです。通し矢の記録が明確に残っているのは1606年(慶長11年)正月(1月)の浅岡平兵衛(あさおかへいべえ)の記録が最初だそうです。最高記録は1686年(貞享3年)4月に紀州の和佐大八郎(和佐範遠)の総矢13,053本、通し矢8,133本です。
●通し矢の伝統・歴史に因んで、例年1月15日に近い日曜日に全国弓道大的大会が行われています。全国弓道大的大会では20歳を迎えた男女の弓道有段者や称号者が約60メートル先の大的を射って腕を競います。予選で2本の矢が全て大的に的中した皆中者で決勝が行われます。なお同日に楊枝のお加持も行われます。

【得長寿院・尊勝寺の解説】

平安時代後期には三十三間堂(蓮華王院本堂)以外にも尊勝寺(そんしょうじ)・得長寿院(とくちょうじゅいん)の三十三間堂もありました。
●得長寿院の三十三間堂は1132年(長承元年)に平清盛の父・平忠盛が鳥羽上皇の為に建立しました。得長寿院の三十三間堂は中央に丈六の十一面観音菩薩、その左右に1,000体の等身の聖観音菩薩を安置し、その中に1,000体の小仏が納められました。その後17年足らずで西側に傾き始め、1185年(元暦2年)7月9日のの大地震で倒壊し、その後再建されませんでした。ただ僅かに残された仏像が三十三間堂に移されたとも言われています。なお三十三間堂は平清盛が父・平忠盛が建てた得長寿院の形式を受け継いで建てたとも言われています。
●尊勝寺の三十三間堂は1105年(長治2年)に高階為家が阿弥陀堂として建てました。尊勝寺の三十三間堂は丈六の無量寿仏9体、脇侍に観音菩薩・勢至菩薩、そして四天王像を安置したと言われています。その後1185年(元暦2年)7月9日のの大地震で倒壊し、その後再建されませんでした。

【三十三間堂・蓮華王院本堂の完全ガイド 備考】
*参考・・・三十三間堂(見どころ・歴史・蓮華王院本堂・・・)ホームページ

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