若一神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

若一神社

若一神社の歴史を時代別年表にまとめ

若一神社の歴史を簡単にまとめています。若一神社は1166年(仁安元年)8月に平清盛が熊野に詣でた際に神託があり、帰京後の11月10日に若一王子の御神体を発見し、別邸・西八条殿内に鎮守社として社殿を建立して祀ったのが起源です。(時代別年表・重要人物下記参照)

若一神社(アクセス・歴史・・・)

【威光上人】

●772年(宝亀3年)に唐(中国)から渡来した威光上人(いこうしょうにん)が熊野十二所権現(くまのじゅにしょごんげん)に数えられる若一王子(にゃくいちおうじ)の分霊である御神体を神意に従って、この地の森にあった古堂に祀りました。威光上人は第49代・光仁天皇(こうにんてんのう)の時代(宝亀元年(770年)~781年(天応元年))に唐(中国)から来日し、摂津国天王寺に住していました。その後威光上人は紀伊国(和歌山)の熊野に詣でて迷い苦しむ人々を救う為、若一王子の御分霊である御神体を笈に背負って旅立って、この地にたどり着いて古堂に一夜を明かしました。その後異変により、御神体が土の中に入ったと言われています。
●承安年間(1171年~1175年)に六波羅(ろくはら)に住していた平清盛(たいらのきよもり)が浅水の森と称され、風光明媚(ふうこうめいび)だったこの地に別邸・西八条殿(にしはちじょうどの・八条亭)を造営して住しました。西八条殿は平安京の八条大路以北、大宮大路以西に6町以上を占める広大な敷地を有し、50余の邸があったと伝えられています。西八条殿は現在の梅小路公園付近にありました。

【若一神社の起源・始まり】

●若一神社は1166年(仁安元年)8月に平清盛が熊野に詣でた際に神託(お告げ)があり、若一王子の御神体を発見し、別邸・西八条殿内に鎮守社として社殿を建立して祀ったのが起源です。平清盛には「土中に隠れたる御神体、世に出し奉斎せよ。」との神託(お告げ)があり、帰京後の11月10日に西八条殿内を探すと東方の築山から夜光が放たれ、 平清盛が歓喜して自ら三尺ほど掘ると土中から若一王子の御神体が現れました。翌1167年(仁安2年)2月10日に平清盛は太政大臣に任ぜられたことから開運出世のご利益があると言われるようになりました。ちなみに毎朝行われる日供祭(にっくさい)では銘水・神供水が神前に供えられます。神供水は古くから銘水として知られ、開運出世の水として産湯などに使われました。なお平清盛が太政大臣に任命された際に感謝として樹齢800年とも言われる大楠(平清盛御手植の楠)をお手植えしたと言われています。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●1167年(仁安2年)に平清盛は摂津福原に移り、西八条殿に妻・二位尼時子が住んだと言われています。
●1179年(治承3年)に平清盛の娘・徳子(建礼門院)が産んだ言仁親王(第81代・安徳天皇)が西八条殿に行啓したと言われています。
●1183年(寿永2年)に平氏が自ら六波羅邸・西八条殿に火を放って都落ちしました。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

●天正年間(1573年~1592年)に播磨国(兵庫)の高砂神社から勧請し、寿命社(高砂尉・姥)が創建されました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●1715年(正徳5年)に滋賀・竹生島の都久夫須麻神社から勧請し、弁財天社(市杵島姫命)が創建されました。
●1740年(元文5年)に日旋老師が霊夢により、若一王子の御神体を再び掘り出したとも言われています。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●1939年(昭和14年)に西大路通で京都市電が延伸された際、境内の西側を通そうとしたが、平清盛御手植の大楠を伐採すると平清盛の祟りがあるとされ、大楠を避けて通されました。西大路通は大楠を避けて少し蛇行しています。
●1983年(昭和58年)9月11日に祖霊社が創建されました。
●1983年(昭和58年)に5社で西大路福社ご利益巡りが始まり、1984年(昭和59年)に7社による西大路七福社ご利益巡りなり、その一社になりました。西大路七福社ご利益巡りではわら天神宮・平野神社・熊野神社衣笠分社・大将軍八神社・西院春日神社・若一神社・吉祥院天満宮を巡ります。

【若一神社を創建した平清盛】

平清盛は1118年(永久6年)に伊勢平氏の棟梁・平忠盛と白河院女房の間に嫡男として生まれました。平清盛は白河法皇(第72代・白河天皇)のご落胤とも言われています。1129年(大治4年)に従五位下・左兵衛佐に叙任され、1137年(保延3年)に父による熊野本宮造営の功により、肥後守に任じられました。1153年(仁平3年)に父が亡くなると平氏の棟梁になりました。1156年(保元元年)に保元の乱で源義朝とともに第77代・後白河天皇方について勝利し、1159年(平治元年)に平治の乱で源義朝らの源氏を追討して対立勢力を一掃しました。1167年(仁安2年)に従一位・太政大臣になりました。1171年(承安元年)に娘・徳子が第80代・高倉天皇の女御として入内し、翌1172年(承安2年)に中宮になり、同年11月12日に言仁親王(第81代・安徳天皇)を産みました。平氏は隆盛を極め、平時忠をして「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめした。1177年(治承元年)に平氏打倒の謀議・鹿ヶ谷の陰謀が起こると後白河法皇(第77代・後白河天皇)に離宮・鳥羽殿に幽閉し、1180年(治承4年)に第80代・高倉天皇が譲位して言仁親王が安徳天皇に即位しました。なお平清盛は1181年(治承5年)に亡くなり、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いに敗れて平氏は滅亡しました。

【若一神社の歴史 備考】
*参考・・・若一神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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