宝積寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

宝積寺の歴史を時代別年表にまとめ
宝積寺の歴史を簡単にまとめています。宝積寺は寺伝によると724年(神亀元年)に僧・行基が聖武天皇の勅願によって創建したと言われています。聖武天皇が龍神から授けられたと言われる打出と小槌が小槌宮に祀られています。(時代別年表・重要人物下記参照)
【天王山・聖武天皇】
●天王山(てんのうざん)は京都盆地西辺となる西山山系の南端に位置する標高約270メートルの山です。天王山の名称は中腹に牛頭天王(ごずてんのう)を祭神とする山崎天王社(自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ))が祀られていることに由来しています。天王山は木津川(きづがわ)・宇治川(うじがわ)・桂川(かつらがわ)の三川合流付近に位置しています。
●723年(養老7年)11月23日に龍神が唐(中国)から何事も叶う万宝第一の打出(うちで)と小槌(こづち)を日本に伝来されました。724年(神亀元年)に第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)は夢に出現した龍神から打出と小槌を授かって祈願すると同年2月4日に天皇に即位したと伝えられています。
【宝積寺の起源・始まり】
●宝積寺(宝寺)は寺伝によると724年(神亀元年)に僧・行基(ぎょうき・ぎょうぎ)が聖武天皇の勅願によって創建したと言われています。聖武天皇が龍神から授けられたと言われる打出と小槌が小槌宮に祀られています。
【奈良時代(710年頃~794年頃)の歴史・出来事】
●奈良時代に本尊・大黒天神を天竺(てんじく・インド)から招いて祀ったと言われています。その後財福・繁栄・増進の神様として信仰され、打出と小槌の加持を求める信徒が大勢参詣しました。
●725年(神亀2年)に行基は淀川(よどがわ)に山崎橋を架け、731年(天平3年)に行基は山崎橋を管理する橋寺として、山崎院を創建したと言われています。山崎院は天王山の南麓(大山崎町大山崎上ノ田)にあったとされ、山崎院跡から日本最古級の壁画断片などが出土しました。宝積寺は山崎院の後身とも言われています。なお746年(天平18年)に行基は西観音寺(椎尾神社)を建立し、天王山周辺は行基にゆかりの深い場所と言われています。
●784年(延暦3年)に洪水で橋が流出した際、1人の翁(おきな)が現れて水上を歩くと見事に橋が復元されました。一条の光明とともに宝積寺の厨子(ずし)の中に入り、本尊・十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)が翁に化身して橋を架けたと評判になり、十一面観世音菩薩は橋架観音と言われるようになりました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
●長徳年間(995年~999年)に天台宗(てんだいしゅう)の僧・寂昭(じゃくしょう)が中興したと言われています。寂昭は俗名を大江定基(おおえのさだもと)と言い、「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」によると三河守(みかわのかみ)として赴任していた際に最愛の女性を亡くし、世を儚んで出家したと言われています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
●1202年(建仁2年)に藤原定家(ふじわらのていか)の日記「明月記(めいげつき)」によると大江匡房(おおえのまさふさ)が宝積寺を参詣したと言われています。大江匡房著の「続本朝往生伝(ぞくほんちょうおうじょうでん)」に宝寺と記されています。
●1232年(貞永元年)に火災で諸堂が焼失したと言われています。
●鎌倉時代に聖武天皇の供養塔である九重石塔(大山崎町指定有形文化財)が建立されました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
●1388年(元中5年・嘉慶2年)に北朝第6代で、第100代・後小松天皇(ごこまつてんのう)の勅願所になりました。
●南北朝時代に塔頭(たっちゅう)が64坊ありました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
●室町時代に松田宗誠が梵鐘を寄進し、待宵の鐘と言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
●1579年(天正7年)に織田信長(おだのぶなが)が滞在し、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の修造を指揮したと言われています。
●1582年(天正10年)の山崎の戦いの際、関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が宝積寺に本陣を置き、その後天王山に築城された山崎城(やまざきじょう)に取り込まれ、山崎城は宝寺城とも言われました。豊臣秀吉は大坂城を築城するまで山崎城を本拠地としました。なお豊臣秀吉が腰を下ろし、采配を振るったと言われる出世石が残されています。出世石は豊臣秀吉が関白・天下人になったことに由来しています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●1604年(慶長9年)に三重塔(重要文化財)が建立されました。三重搭は豊臣秀吉が一夜で建立したとも言われ、三重搭は一夜の塔とも言われています。ただ豊臣秀吉は1598年(慶長3年)に亡くなっています。
●1605年(慶長11年)に豊臣家が本堂(京都府登録有形文化財)を改築しました。
●江戸時代初期に仁王門(京都府登録有形文化財)が再建されました。
●1864年(元治元年)の禁門の変の際、尊皇攘夷派・真木保臣(まき やすおみ)など十七烈士らが陣地を置きました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって荒廃しました。
●1915年(大正4年)に小説家・夏目漱石(なつめそうせき)が宝積寺の東側に実業家・加賀正太郎が建設中であった山荘(アサヒグループ大山崎山荘美術館)を訪れ、「宝寺の 隣に住んで 桜哉」と詠みました。
【宝積寺の開山である行基】
行基は668年(天智天皇7年)に高志才智と蜂田古爾比売の子として生まれましたと言われています。682年(天武11年)に大官大寺で出家し、691年(持統天皇5年)に高宮寺の徳光禅師のもとで受戒しました。飛鳥寺・薬師寺で法相宗初伝の道昭や法相宗の祖・義淵らに法相宗を学びました。704年(大宝4年)に生家を家原寺に改め、705年(慶雲2年)に母とともに大和の佐紀堂に移り、707年(慶雲4年)に母とともに生駒山の草野仙房に移り、母が亡くなると3年間喪に服しました。740年(天平12年)に第45代・聖武天皇による大仏造立に協力し、743年(天平15年)に大仏造立の勧進に起用されました。ただ大仏造立中の749年(天平21年)に亡くなりました。なお行基は738年(天平10年)に朝廷から行基大徳の称号が授与され、745年(天平17年)に日本初の大僧正位を授与されました。
【宝積寺の歴史 備考】
*参考・・・宝積寺(アクセス・歴史・・・)