成就院の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

成就院の歴史を時代別年表にまとめ
成就院の歴史を簡単にまとめています。成就院は応仁の乱で伽藍の多くが焼失した清水寺を再興させた清水寺本願職・願阿上人の住房・本願院が起源です。願阿上人は後土御門天皇から清水寺再建の了承を得て再建を開始しました。(時代別年表・重要人物下記参照)
【清水寺】
●清水寺は778年(宝亀9年)に法相宗(ほっそうしゅう)大本山である奈良・興福寺(こうふくじ)の僧で、奈良・子島寺(こじまでら)で修行していた延鎮上人(えんちんしょうにん)・賢心(けんしん)が「南の地を去れ」・「木津川の北流に清泉を求めて行け」という霊夢を受けたのが起源と言われています。霊夢に従って、京都・音羽山(おとわやま)を訪れて滝を見付け、滝の畔で草庵を結んで修行を続ける行叡居士(ぎょうえいこじ)と出会いました。行叡居士は「あなたが来るのを待ち続けていた。私は東国に修行に行く。どうかこの霊木で観音(かんのん)像を彫刻し、この霊地にお堂を建ててくれ」と言い残して姿を消しました。延鎮上人・賢心は行叡居士が観音の化身であると悟り、行叡居士の旧庵に観音像を祀ったと言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
●1467年(応仁元年)に応仁の乱(おうにんのらん)が起こり、1469年(文明元年)に清水寺の本堂(清水の舞台)など伽藍の多くが焼失しました。
【成就院の起源・始まり】
●成就院は応仁の乱で伽藍の多くが焼失した清水寺を再興させた時宗(じしゅう)の僧で、清水寺本願職・願阿上人(がんあしょうにん・願阿弥(がんあみ))の住房・本願院(ほんがんいん)が起源です。願阿上人は第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)から清水寺再建の了承を得て、本堂などの再建を開始しました。その後住房は成就院と名付けられ、清水寺の塔頭(たちゅう)になりました。なお清水寺は「三職(宝性院・慈心院・成就院)六坊(義乗院・延命院・真乗院・智文院・光乗院・円養院)」によって運営され、宝性院が執行職、慈心院が目代職、成就院が本願職を務めました。成就院は伽藍の整備や財政の維持管理、そして渉外などを担当しました。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の歴史・出来事】
●戦国時代(室町時代後期)に絵師・美術鑑定家である相阿弥(そうあみ)が成就院庭園「月の庭」を作庭したと言われています。庭園「月の庭」は妙満寺(みょうまんじ)の塔頭・成就院の「雪の庭」と北野天満宮(きたのてんまんぐう)の神宮寺(じんぐうじ)・成就院の「花の庭」とともに成就院「雪月花の三名園」と言われました。
●1510年(永正7年)に第104代・後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)の勅願寺(ちょくがんじ)になったと言われています。
●1510年(永正7年)に願阿上人の勧進に対し、最大の寄進を行った守護大名・朝倉貞景(あさくらさだかげ)の寄進により、清水寺に法華三昧堂(ほっけさんまいどう・朝倉堂)が建立されました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
●桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が誰が袖手水鉢(たがそでちょうずばち)を寄進したと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●江戸時代前期に大名・茶人で、遠州流の祖・小堀遠州(こぼりえんしゅう)または俳諧の祖とも言われる俳諧師・松永貞徳(まつながていと)が庭園「月の庭」を補修したとも言われています。
●1629年(寛永6年)に成就院からの出火により、清水寺の本堂など伽藍の多くが焼失しました。ただ仁王門(重要文化財)・馬駐(重要文化財)・鐘楼(重要文化財)は焼失を免れました。
●1639年(寛永16年)に第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮・東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ))の寄進により、現在の建物が再建されました。
●江戸時代末期(幕末)に第24代住職・月照(げっしょう)とその弟で、第25代住職・信海(しんかい)が左大臣・近衛忠熙(このえただひろ)、青蓮院宮門跡尊融法親王(しょうれんいんのみやもんざきそんゆうほうしんのう)、薩摩藩藩士・西郷隆盛(さいごうたかもり)ら勤王攘夷派の志士と連絡を取って密議を重ねました。
【成就院ゆかりの願阿上人】
願阿上人(願阿弥)は生年不詳で、越中国(富山県)の漁師の子として生まれたとも言われています。殺生の報いを悟って、七条時宗の教団に入ったとも言われています。富裕層からの寄付によって四条大橋・五条大橋を架け替えたり、一文勧進によって南禅寺の仏殿を寄進したりしました。1459年(長禄3年)の奈良・長谷寺の本尊ご開帳の際、第102代・後花園天皇の勅許の綸旨や室町幕府8代将軍・足利義政が加判した奉加帳を奈良・興福寺に持参したと言われています。1461年(寛正2年)からの寛正の大飢饉の際、足利義政に飢民救済を訴えて奉加銭を得たり、一紙半銭の勧進を募ったりし、六角堂(頂法寺)南側に収容所を建てて飢民に粟粥施行を行いました。餓死者の供養も行いました。応仁の乱後に興福寺から焼失した清水寺の勧進を依頼され、清水寺の伽藍再建に奔走しました。願阿上人は勧進聖として社会事業などに尽くしました。なお願阿上人は1486年(文明18年)6月14日に亡くなりました。
【成就院の歴史 備考】
*参考・・・成就院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ















