峰定寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

峰定寺の歴史を時代別年表にまとめ

峰定寺の歴史を簡単にまとめています。峰定寺は「大悲山峰定寺縁起」によると1154年(久寿元年)に修験者であった三滝上人・観空西念が鳥羽上皇の勅願により、鳥羽上皇の念持仏である十一面千手観音像を本尊として創建したと言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)

峰定寺(アクセス・歴史・・・)

【大悲山】

●峰定寺が建立されている標高約747メートルの大悲山(だいひざん)には鐘掛岩(かねかけいわ)・蟻の戸渡り(ありのとわたり)などの行場があり、古くから修験者(しゅげんじゃ)の修行場所だったと言われています。大悲山は古くから修験者の修行場所として著名だった奈良県吉野郡天川村の大峯山(おおみねさん)に対し、大悲山は「北大峯」とも言われています。
●平安時代中期頃に樹齢約1,000年と言われる杉の大木が生長し、神木とされ、花脊(はなせ)の三本杉と言われています。

【峰定寺の起源・始まり】

●峰定寺は信西(しんぜい・藤原通憲(ふじわらのみちのり))が記した「大悲山峰定寺縁起」によると1154年(久寿元年)に修験者であった三滝上人(みたきしょうにん)・観空西念(かんくうさいねん)が鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇(とばてんのう))の勅願により、鳥羽上皇の念持仏である十一面千手観音(じゅういちめんせんじゅかんのん)像を本尊として創建したと言われています。信西(しんぜい)・平清盛(たいらのきよみり)が本堂・仁王門を建立し、鳥羽上皇の勅願所になったとも言われています。なお本尊・千手観音坐像や脇侍(わきじ)である不動明王(ふどうみょうおう)二童子立像・毘沙門天(びしゃもんてん)立像は1154年(久寿元年)の峰定寺創建時に造仏されたと言われています。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●1156年(久寿3年)に護法殿・宝蔵などの伽藍が建立されたと言われています。
●1159年(保元4年)に平清盛が仏舎利(ぶっしゃり)・唐羅漢(とうらかん)16体を奉納したと言われています。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

●鎌倉時代に鞍馬寺(くらまでら)との間に本末争論が起こったとも言われています。また延暦寺(えんりゃくじ)と園城寺(おんじょうじ・三井寺(みいでら))の衆徒の間で峰定寺支配を巡る争いもあったとも言われています。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

●1350年(正平5年・貞和6年)に現在の仁王門(重要文化財)が再建され、同じ頃に現在の本堂(重要文化財)が再建され、供水所が建立されたと言われています。本堂は日本最古の舞台造(ぶたいづくり・懸造(かけづくり))と言われています。
●南北朝時代頃まで寺勢が盛んであったが、その後次第に衰微したと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●1676年(延宝4年)に後西上皇(第111代・後西天皇(ごさいてんおう))の皇子・聖護院宮道祐入道親王(どうゆうにゅうどうしんのう)が後西上皇の勅により、貴船成就院(きふねじょうじゅいん)の元快が伽藍を再建しました。峰定寺は本山修験宗の総本山・聖護院(しょうごいん)に末寺になったと言われています。なお峰定寺は享保年間(1716年~1736年)に再興されたとも言われています。
●天保年間(1830年~1844年)に庫裡が焼失し、多くの寺宝が焼失しました。

【峰定寺ゆかりの第74代・鳥羽天皇】

第74代・鳥羽天皇は1103年(康和5年)に第73代・堀河天皇と藤原苡子の第1皇子として生まれました。生後間もなく母・藤原苡子が亡くなったことから祖父・白河法皇(第72代・白河天皇)のもとで養育され、その後生後7か月で立太子され、 1107年(嘉承2年)に父が崩御すると5歳で天皇に即位しました。幼く、病弱だったことから祖父が院政(政務)を執りました。1117年(永久5年)に白河法皇の養女・藤原璋子が入内し、翌年に中宮になりました。1123年(保安4年)に第1皇子で、第75代・崇徳天皇に譲位したが、その後も祖父が院政を続けたが、1129年(大治4年)に白河法皇が崩御すると院政を敷きました。祖父の側近を排除し、藤原璋子に代わり、1133年(長承2年)頃から藤原得子(美福門院)を寵愛し、1141年(永治元年)に崇徳天皇を譲位させ 、藤原得子との第9皇子・体仁親王を3歳で第76代・近衛天皇に即位させました。1142年(康治元年)に奈良・東大寺の戒壇院で受戒して法皇になり、1155年(久寿2年)に近衛天皇が崩御すると藤原璋子との第4皇子・雅仁親王を第77代・後白河天皇に即位させました。崇徳上皇の意を押えて後白河天皇を即させたことから保元の乱の原因になったと言われています。鳥羽天皇は仏教を篤く信仰し、最勝寺・六勝寺などを創建したり、熊野に詣でたりしました。また催馬楽・音律に精通し、笛の名人としても知られています。なお第74代・鳥羽天皇は1156年(保元元年)に崩御しました。

【峰定寺の歴史 備考】
*参考・・・峰定寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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