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カテゴリー:祇園祭(京都)
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第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう)と祇園祭
祇園祭では第77代・後白河天皇が1157年(保元二年)に八坂神社の威儀を増す為、祇園祭執行の費用を負担する馬上役を洛中の富家から差定する制度を設けました。また後白河法皇は1172年(承安2年)に神輿3基も寄進しました。 -

粟田神社(あわたじんじゃ)粟田祭の剣鉾(けんほこ)と祇園祭
祇園祭の山鉾は粟田神社粟田祭の剣鉾が原型とも言われています。剣鉾は長さ約7~8メートル・重さ約40~60キロです。剣鉾は長い棹の先に剣が取り付けられ、上部の剣と下部の棹の間に錺金物で装飾し、棹に鈴・吹散などが付けられています。 -

町衆(まちしゅう)の経済力・美意識と祇園祭
祇園祭は庶民の祭り、葵祭は貴族の祭りと言われていました。祇園祭では南北朝時代頃に山鉾が誕生したが、その背景には町衆の経済力と風流と言われた美意識があったと言われています。経済力によって祇園祭は盛大なものになりました。 -

「祭花(まつりばな)」のヒオウギ(檜扇)と祇園祭
祇園祭では古くから「祭花」として、植物のヒオウギを屋敷の床の間や玄関などに活けたり、家の軒先などに飾ったりする習慣があります。祇園祭の宵山期間中などに家宝の屏風などと一緒にヒオウギが活けられたりします。 -

六角堂(頂法寺(ちょうほうじ))と祇園祭
祇園祭は室町時代中期に約10年にわたる応仁の乱が勃発して33年間も中絶し、1500年(明応9年)に再興された際に山鉾の先陣争いを防止する為にくじ取りが行われました。その後くじ取り式が六角堂で行われるようになりました。 -

下級神人(じにん)である犬神人(いぬじにん)と祇園祭
祇園会ではかつて神幸祭・還幸祭の神輿渡御の際、犬神人が神輿を先導し、沿道を清めていたと言われています。犬神人は法師姿で、赤い布衣に白い布で覆面し、眼だけ出して八角棒を持ち、「六人の棒の衆(棒の者)」と言われていました。 -

神幸祭・還幸祭の神輿渡御ルートと祇園祭
祇園祭は千年以上の歴史があることから山鉾巡行ルートと同じように神輿渡御ルートも変更させています。そのルート変更に大きな影響を与えたひとつのが、関白・豊臣秀吉が行った大政所御旅所と少将井御旅所の移転・統合です。 -

侍所の下級役人である雑色(ぞうしき)と祇園祭
祇園祭は約10年間続いた応仁の乱によって33年間も中絶しました。1500年(明応9年)の祇園祭再興の際に行われたくじ取り式では室町幕府の侍所開闔・松田豊前守頼亮とともに侍所の下級役人である雑色が重要な役割を果たしました。 -

松田豊前守頼亮(まつだぶぜんのかみよりすけ)と祇園祭
祇園祭は室町時代中期に約10年にわたって戦われた応仁の乱が勃発ずると33年間に渡って中絶しました。松田豊前守頼亮は先陣争いが絶えなかった山鉾巡行の混乱を避ける為に私宅でくじ取りを始め、現在のくじ取り式の起源になりました。 -

卜部日良麻呂(うらべのひらまろ)と祇園祭
祇園祭は「祇園社本縁録」によると869年(貞観11年)の疾病大流行の際、卜部日良麻呂が清和天皇の勅命により、6月7日に長さ2丈の66本の矛を建て、6月14日に洛中の男児や郊外の百姓を率いて神輿を八坂神社から神泉苑に渡御させたのが起源とも言われています。 -

室町幕府・足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)と祇園祭
祇園祭は千百年以上の歴史があり、その歴史の中で天皇・将軍などが見物した記録が残されています。南北朝時代頃から次第に祭礼への関心が神事である神輿渡御から山鉾に移り、足利将軍家では桟敷を設け、山鉾や神輿渡御を見物しました。 -

鷹山(ちまき販売日程・ご利益・・・)祇園祭後祭山鉾
鷹山(ちまき販売・ご利益・マップ)を紹介。鷹山は高さが17メートルの大型の山鉾で、鷹山は御神体に鷹匠・犬飼・樽負を祀っていることに由来しています。鷹山の御神体と鉦は鷹山装飾品として、京都市の有形民俗文化財に指定されています。















