祇園祭と松田豊前守頼亮(まつだぶぜんのかみよりすけ)
祇園祭と松田豊前守頼亮(まつだぶぜんのかみよりすけ)
祇園祭は約10年にわたって戦われた応仁の乱が起こると33年間に渡って中絶しました。松田豊前守頼亮は先陣争いが絶えなかった山鉾巡行の混乱を避ける為に私宅でくじ取りを始めました。松田豊前守頼亮は現在のくじ取り式の起源になりました。
【祇園祭2025 日程】
祇園祭2025は2025年7月1日(火曜日)の吉符入(きっぷいり)から2025年7月31日(木曜日)の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2025日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【祇園祭と松田豊前守頼亮(まつだぶぜんのかみよりすけ)】
祇園祭は細川勝元(ほそかわかつもと)を東軍総大将、山名宗全(やまなそうぜん)を西軍総大将として、1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)までの約10年にわたって戦われた応仁の乱(おうにんのらん)が勃発すると33年間に渡って中絶しました。その後1496年(明応5年)頃から祇園祭再興の気運が高まり、1500年(明応9年)に祇園祭が再興されました。祇園祭再興には室町幕府の奉行衆・松田豊前守頼亮(まつだぶぜんのかみよりすけ)が大きな役割を果たしたと言われています。松田豊前守頼亮は古老から聞き取りを行い、応仁の乱前に山鉾が60基(前祭32基・後祭28基)あったことが分かりました。また松田豊前守頼亮は「祇園会山鉾事(八坂神社文書)」に「今度御再興巳後、山鉾次第町人等諍論之間、鬮取次第也、前々日町人等来愚邸鬮取之、雑色等来入申付之、 頼亮(松田豊前守頼亮)」と記され、くじ取り式の起源にもなりました。要約は「1500年(明応9年)の祇園祭再興にあたって、山鉾巡行の順番を町人らが議論し、くじ取りになった。くじ取りは山鉾巡行の前々日に松田豊前守頼亮の邸宅で、侍所の下級役人である雑色らの立ち会いのもとで行われた。」と記されています。松田豊前守頼亮は警察機能などを管掌する侍所奉行人の事務長・侍所開闔を務め、京都の治安維持などを行っていた為、山鉾の先陣争いが絶えなかった山鉾巡行の混乱を避ける為、くじ取りを始めました。再興直後の祇園祭では「祇園社記」によると旧暦6月7日の山鉾巡行(前祭)に26基、旧暦6月14日の山鉾巡行(後祭)に10基の山鉾が巡行しました。ちなみに現在のくじ取り式では7月17日の山鉾巡行(前祭)・7月24日の山鉾巡行(後祭)の順番を一度に決めているが、以前は旧暦6月7日の山鉾巡行(前祭)・旧暦6月14日の山鉾巡行(後祭)のそれぞれ前日に六角堂(ろっかくどう・頂法寺(ちょうほうじ))でくじ取り式が行われていました。なお現在のくじ改めでは京都市長が奉行役を務めています。
【松田豊前守頼亮 祇園祭】
松田豊前守頼亮はあまり多くの資料が残されていません。松田豊前守頼亮は松田亮致の子として生れたとも言われています。松田豊前守頼亮は役職が室町幕府の奉行衆(奉行人)、官位が左衛門大夫・豊前守です。「北野社家日記」によると室町時代後期の1493年(明応2年)1月8日に飯尾春貞とともに丹後国に下向した記録が残されています。松田豊前守頼亮は戦国時代の1511年(永正11年)に亡くなったと言われています。なお立入宗継は松田豊前守頼亮の子孫とも言われています。
松田氏には相模国足柄に発祥した藤原秀郷流の波多野氏や室町時代に備前国西部一帯に支配した松田氏などがいるが、松田豊前守頼亮は丹後国を拠点とする桓武平氏流の一族です。丹後国を拠点とする松田氏は鎌倉時代後期に鎌倉幕府の六波羅奉行人になったり、室町時代に二階堂氏・波多野氏とともに室町幕府の評定衆に列したり、応永年間(1394年~1428年)に室町幕府の政所執事代になったりしました。
【祇園祭と松田豊前守頼亮(まつだぶぜんのかみよりすけ) 備考】
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