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カテゴリー:祇園祭(京都)
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祇園祭と藤原道長(ふじわらのみちなが)
祇園祭では神輿渡御から山鉾巡行に中心行事が移行します。雑芸者・無骨が山鉾の起源とも言われる作山を制作して八坂神社の社頭で引き廻した際、左大臣・藤原道長は無骨の行為に驚いて停止と検非違使に追捕を命じました。 -
祇園祭と応仁の乱(1467年~1477年)前の山鉾
祇園祭は応仁の乱で33年間も中絶します。1500年(明応9年)の再興の際に松田豊前守頼亮がまとめた「祇園会山鉾事」に応仁の乱前の山鉾が記されています。ただその中には現在まで受け継がれている山鉾もあれば、廃絶した山鉾もあります -
祇園祭と藤原宗忠の「中右記(ちゅうゆうき)」
祇園祭は葵祭とともに千年以上の歴史があるが、平安時代中期頃に祭りと言えば、葵祭を指すほど隆盛していました。「中右記」ではかつての祇園祭の様子が記され、祇園祭が現在の様式が整うまでの過程を知ることができます。 -
祇園祭と藤原実資の「小右記(おうき・しょうゆうき)」
祇園祭では中心行事が神輿渡御から山鉾巡行に移っていくが、その過程で作山風流・散楽空車・久世舞車などが現れます。右大臣・藤原実資が記した「小右記」には神輿の後を散楽を演じる散楽空車が巡行したことが記されています。 -
祇園祭と「本朝世紀(ほんちょうせいき)」
祇園祭ではかつて神輿渡御が中心行事だったが、その後山鉾巡行が中心行事になってきます。「本朝世紀」には999年(長保元年)に雑芸者・無骨が大嘗会の標山をまねた作山を造って引き廻したことが記され、山鉾・山鉾巡行の起源とも言われています。 -
祇園祭と秦助正(はたのすけまさ)・大政所御旅所
祇園祭ではかつて神輿が大政所御旅所・少将井御旅所に渡御していました。大政所御旅所は974年(天延2年)に東洞院高辻に住む秦助正が八坂大神からの神託を受け、円融天皇も同じ夢を見ていたことから秦助正の自宅が大政所御旅所になりました。 -
祇園祭と伏見宮貞成親王の「看聞御記(かんもんぎょき)」
祇園祭ではかつて神輿渡御が中心行事だったが、その後山鉾巡行が中心行事になってきます。その過程で笠鷺鉾(鵲鉾)や作山風流・散楽空車・久世舞車なども生れました。笠鷺鉾は伏見宮貞成親王が記した「看聞御記」にも記されています。 -
祇園祭と第95代・花園天皇の「花園天皇宸記」
祇園祭ではかつて神輿渡御が中心行事だったが、その後山鉾・山鉾巡行が中心行事になってきます。第95代・花園天皇が記した日記「花園天皇宸記」には鉾を取り巻く鉾衆の回りで、鼓打らが風流の舞曲を演じたことが記されています。 -
祇園祭と中原師守の「師守記(もろもりき)」
祇園祭ではかつて神輿渡御が中心行事だったが、南北朝時代に一層賑やかになります。南北朝時代に北朝方の官人・中原師守が記した「師守記」に室町幕府2代将軍・足利義詮が桟敷を設け、祇園祭を見物したことが記されています。 -
祇園祭と一条兼良の「尺素往来(せきそおうらい)」
祇園祭では神輿渡御が中心行事だったが、その後中心行事が神輿から山鉾に移ります。室町時代中期頃に一条兼良が編纂した「尺素往来」に定鉾・鵲鉾・跳鉾・風流の造山・白河鉾など巡行し、大変華やかだったことが記されています。 -
祇園祭と三条公忠の「後愚昧記(ごぐまいき)」
祇園祭では神輿渡御が中心行事だったが、その後中心行事が神輿から山鉾に移ります。三条公忠の「後愚昧記」には神輿が渡御しなかったが、鉾が巡行し、室町幕府3代将軍・足利義満が桟敷を設けて見物したことが記されています。 -
祇園祭と「年中行事絵巻(ねんじゅうぎょうじえまき)」
祇園祭は後白河法皇が絵師・常盤光長らに描かせ、藤原基房に校閲させた「年中行事絵巻」に描かれています。「年中行事絵巻」第9巻の「祇園御霊会の神輿遷幸」には平安時代後期に祇園祭の中心行事だった神輿渡御が描かれています。