祇園祭と伏見宮貞成親王の「看聞御記(かんもんぎょき)」
祇園祭と伏見宮貞成親王の「看聞御記(かんもんぎょき)」
祇園祭ではかつて神輿渡御が中心行事だったが、その後山鉾巡行が中心行事になってきます。その過程で笠鷺鉾(鵲鉾)や作山風流・散楽空車・久世舞車なども生れました。笠鷺鉾は伏見宮貞成親王が記した「看聞御記」にも記されています。
【祇園祭2025 日程】
祇園祭2025は2025年7月1日(火曜日)の吉符入(きっぷいり)から2025年7月31日(木曜日)の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2025日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【祇園祭と伏見宮貞成親王の「看聞御記(かんもんぎょき)」】
祇園祭ではかつて神輿渡御が中心行事だったが、その後山鉾巡行が中心行事になってきます。その過程で笠鷺鉾(かささぎほこ・鵲鉾)や作山風流(つくりやまふりゅう)・散楽空車(さんがくむなぐるま)・久世舞車(くせまいくるま)などが現れました。笠鷺鉾(鵲鉾)は白鷺の格好をして舞う囃子物(はやしもの)と言われています。「諸国年中行事大成」の「祇園会古図」には太鼓・笛・鉦(かね)で囃し立てられ、鷺に扮した舞手が上体を右に傾け、右足を上げて舞う姿が描かれています。笠鷺鉾は中原師守(なかはらのもろもり)の「師守記(もろもりき)」1365(正平20年・貞治4年)6月14日の条に「今日祇園御霊会(祇園祭)、例の如し。作山一両これ有り。笠鷺鉾これ無く。(略)久世舞車これ無く、大名見物せず」と記されているのが文献上の初見で、南北朝時代以前から祇園祭に出ていたと言われています。伏見宮貞成親王(ふしみのみやさだふさしんのう)が記した「看聞御記(かんもんぎょき)」1436年(永享8年)6月14日の条に「祇園会(祇園祭)結構云々。公方御見物なし。早旦、北畠笠鷺鉾参る。塀中、門の内で舞しむる。練貫一太刀一を給う。往昔、菊殿において見物。再び会うに目に珍く眼を養う。その後大舎人鉾参る。練貫一太刀一を下される。見物衆、皷操るなり」、また「看聞御記」1437年(永享9年)6月14日の条に「祇園会(祇園祭)例のごとし。朝、大舎衛鉾。北畠笠鷺鉾等参る」、更に1438年(永享10年)6月14日の条に「祇園会(祇園祭)例のごとし。夕立降り雷鳴る。神幸に違乱か。岡殿方丈。御喝食来る。笠鷺鉾雨中に参る。ぬれぬれ舞。その興あり。禄物は練貫一、太刀一を給う。その後大舎人鉾参る。禄は前と同じ。一献有り。内祭の儀例のごとし」と記され、1436年(永享8年)から1438年(永享10年)の3年間、6月14日に笠鷺鉾が巡行していました。応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))前の山鉾と地名を記した「祗園社記(ぎおんしゃき)」第15(八坂神社記録)に「さきほく 北はたけ」と記されていたが、応仁の乱後に姿を消したと言われています。「看聞御記」は北畠氏(きたばたけし)が調進した笠鷺鉾(鵲鉾)など当時の祇園祭を知る貴重な資料になっています。
「看聞御記」は伏見宮貞成親王が45歳から書き始めた日記です。「看聞御記」は1416年(応永23年)から1448年(文安5年)までの33年間が記されています。ただ一部が消失しています。「看聞御記」には朝廷の出来事・室町幕府の諸事、そして能・狂言・茶・いけ花など芸能・風俗や市井の雑事などが記されています。
【伏見宮貞成親王 祇園祭】
伏見宮貞成親王は1372年(応安5年)4月9日は伏見宮栄仁親王と正親町三条治子の間に生まれ、伏見宮栄仁親王の第2皇子でした。北朝3代・崇光天皇の孫にあたり、左大臣・今出川公直、左大臣・今出川公行兄弟に養育されました。幼少から音楽・和歌に親しみました。1411年(応永18年)の40歳で父のもとに迎えられ、伏見御所で元服しました。1416年(応永23年)に父が亡くなり、1417年(応永24年)に兄・治仁王も亡くなり、伏見宮を継承しました。1418年(応永25年)に第100代・後小松天皇の猶子になり、1425年(応永32年)に親王宣下を受けました。また病弱な第101代・称光天皇に代わって皇位を継承するという噂が流れ、後小松天皇に従って剃髪し、法号「道欽」と称しました。1428年(正長元年)に称光天皇が崩御すると第1皇子・彦仁王も後小松天皇の猶子になるとともに第102代・後花園天皇に即位し、父の宿願を果たしました。1447年(文安4年)に太上天皇の尊号を受けました。伏見宮貞成親王は子・後花園天皇の為に皇統について著した「椿葉記」を記し、日記「看聞御記」を書きました。なお伏見宮貞成親王は1456年(康正2年)9月28日に亡くなりました。
【祇園祭と伏見宮貞成親王の「看聞御記(かんもんぎょき)」 備考】
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祇園祭2025日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)