祇園祭と第95代・花園天皇の「花園天皇宸記」
祇園祭と第95代・花園天皇の「花園天皇宸記」
祇園祭ではかつて神輿渡御が中心行事だったが、その後山鉾・山鉾巡行が中心行事になってきます。第95代・花園天皇が記した日記「花園天皇宸記」には鉾を取り巻く鉾衆の回りで、鼓打らが風流の舞曲を演じたことが記されています。
【祇園祭2025 日程】
祇園祭2025は2025年7月1日(火曜日)の吉符入(きっぷいり)から2025年7月31日(木曜日)の疫神社(えきじんじゃ)の夏越祭(なごしさい)までの7月1ヶ月に渡って行われます。
祇園祭2025日程一覧(宵山屋台・山鉾巡行・・・)
【祇園祭 歴史・簡単概要】
祇園祭(ぎおんまつり)は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、更に牛頭天王を主祭神とする八坂神社から3基の神輿を送り、病魔退散(びょうまたいさん)を祈願した祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が起源と言われています。970年(天禄元年)から毎年に行われるようになりました。
祇園祭歴史年表・由来(869年~)
【祇園祭と第95代・花園天皇の「花園天皇宸記」】
祇園祭ではかつて神輿渡御が中心行事だったが、その後山鉾・山鉾巡行が中心行事になってきます。鳥羽上皇(第74代・(とばてんのう))の命により、信西(しんぜい)が編纂した「本朝世紀(ほんちょうせいき)」999年(長保元年)6月14の条に「但今日祇園天神会也。而自去年。京有雑芸者。是則法師形也。世号謂無骨。実名者頼信。世間交仁安等者。件法師等為令京中之人見物。造村凝渡彼社頭。而如云々者。件村作法。宛如引大嘗会之標。」と記され、雑芸者・無骨が大嘗会(だいじょうさい)の標山(しめやま)をまねた作山を造って八坂神社の社頭で引き廻したのが山鉾・山鉾巡行の起源とも言われています。また第95代・花園天皇(はなぞのてんのう)が記した日記「花園天皇宸記(はなぞのてんのうしんき)」1321年(元亨元年)7月24日の条に「今日去月伏見殿御勝負事負態也 (略) 即風流渡南庭、是御霊会(祇園祭)之儀也。先鉾二□、鉾衆如恒、次鼓打二騎(成経・経顕)朝臣渡前庭、過御前之間、 (略)次馬長(櫛丸)過御前、次又召返鉾衆施舞曲申、(裏書)鉾衆参議以下也、」と記され、鉾を取り巻く鉾衆の回りで、鼓打らが風流の舞曲を演じ、山鉾巡行の原形になったとも言われています。また「花園天皇宸記」1321年(元亨元年)6月14日の条に「御霊会(祇園祭)如例、今年馬長無領状之仁(略) 、今日鉾衆等群参乱舞、親王見物之、」、翌15日の条に「今日猶鉾衆済々参入乱舞」と記され、馬長はなかったが、鉾衆らが集まって乱舞し、親王が見物したようです。祇園祭は鎌倉時代末期に大変賑やかだったことが分かります。なお「花園天皇宸記」1332年(元弘2年・正慶元年)6月7日の条に「今日祇園御霊会(祇園祭)鉾等、可止兵具之由、武家奏聞之、即被仰勅答、今日鉾等皆以無音、只叩鼓許也、是又武家相触之故不出音云々、」と記され、鼓を叩くことが許され、当時の祇園祭の状況を知る資料になっています。
「花園天皇宸記」は第95代・花園天皇の日記です。「花園天皇宸記」は鎌倉時代後期の1310年(延慶3年)10月から南北朝時代の1332年(正慶元年・元弘2年)11月の23年間が記されています。ただ1311年(応長元年)の7月~10月など欠月があります。
【第95代・花園天皇 祇園祭】
第95代・花園天皇は1297年(永仁5年)8月14日は第92代・伏見天皇と左大臣・洞院実雄の娘・洞院季子(顕親門院)の間に生まれ、伏見天皇の第4皇子でした。幼少から学問を好み、歴代天皇の記録や和漢の史書などを読破しました。大覚寺統と持明院統の対立の中で、兄で、第93代・後伏見天皇の猶子になり、1301年(正安3年)8月に皇太子になりました。1308年(延慶元年)8月25日に第94代・後二条天皇が急死し、翌26日に12歳で践祚し、11月16日に第95代・花園天皇に即位しました。その後父・伏見上皇が院政を行い、次に兄・後伏見上皇(第93代・後伏見天皇)が院政を行ないました。1318年(文保2年)2月に尊治親王に譲位し、南朝初代で、第96代・後醍醐天皇が即位しました。その後甥で、皇太子・量仁親王(北朝初代・光厳天皇)を養育し、1330年(元徳2年)に量仁親王を訓戒する「誡太子書」を記しました。南北朝時代に北朝を支え、1335年(建武2年)11月に円観のもとで出家し、遍行と称しました。大燈国師・宗峰妙超とその高弟・関山慧玄を師事し、1342年(興国3年・暦応5年)1月に花園御所(離宮・萩原殿)を改めて妙心寺を創建しました。花園天皇は和漢の学に通じ、「学道之記」・「論語抄」を記し、和歌を好んで「風雅和歌集」の撰者になり、日記「花園天皇宸記」を書きました。花園天皇は持明院統に属したが、皇位争いでは常に公正な態度をとりました。なお第95代・花園天皇は1348年(貞和4年)12月2日に亡くなりました。
【祇園祭と第95代・花園天皇の「花園天皇宸記」 備考】
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祇園祭2025日程(ちまき販売・宵山屋台・・・)