中川喜雲(なかがわきうん)の「案内者」と五山送り火
中川喜雲の「案内者」と五山送り火
五山送り火は古くから行われていると言われているが、いつから始まったかは明確ではありません。五山送り火について具体的な名称が記されている文献には江戸時代(1573年~1603年)前期の1662年(寛文2年)に刊行された中川喜雲の「案内者」があります。
【五山送り火2025 日程】
五山送り火2025は2025年(令和7年)8月16日(土曜日)20:00から5分間隔で順次点火されます。なお五山送り火は原則雨天決行だが、気象条件によって点火時間が変更になる場合もあります。
五山送り火2025
【五山送り火 歴史・簡単概要】
五山送り火(ござんのおくりび)はお盆(おぼん・盂蘭盆(うらぼん))にあの世(冥府(めいふ))から帰ってきたお精霊さん(おしょらいさん)をあの世に送り返す仏教的行事です。五山送り火は宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」とも言われることがあります。五山送り火はいつ始まったかは明確ではありません。一説には多くの灯明を灯して仏神を供養する万灯会(まんどうえ)が山の山腹で行われるようになり、お盆の精霊の送り火(門火(かどび))になったとも言われています。
【中川喜雲(なかがわきうん)の「案内者(あんないしゃ)」】
五山送り火は古くから行われていると言われているが、いつから始まったかは明確ではありません。五山送り火は平安時代(794年~1185年)から室町時代(1336年~1573年)に始まったとも言われています。五山送り火について具体的な名称が記されている文献には江戸時代(1603年~1868年)前期の1662年(寛文2年)に刊行された俳人・仮名草子作者である中川喜雲の「案内者」があり、「山々の送り火、但し雨ふればのぶるなり、萬治三年庚子七月十六日雨天ゆえ、東山の大もんじその外十七日にこれあり、松ケ崎には妙法の二字を火にともす、やまに妙法といふ筆画に杭をうち、松明を結びつけて火をともしたるものなり。きた山には帆かけぶね、浄土寺に大文字みなかくのごとし。大文字は三藐院殿(近衛信尹)の筆画にて、きり石をたてたりといふ、筆勢ゆるやかにみゆ、一もんじの長さ三丈ばかりもやあるらん、」と記されています。江戸時代前期の五山送り火では現在と違って、雨天の場合に延期されていたことが分かります。雨天の中で松明(たいまつ)に火を灯すことは簡単ではなく、難しかったのかもしれません。妙法では杭(くい)を打って松明を結び付けていたことも分かります。大文字の起源には平安時代初期の弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)、室町時代中期の足利義政(あしかがよしまさ)、江戸時代初期の近衛信尹(このえのぶただ)があるが、「案内者」では近衛信尹(三藐院殿(さんみゃくいんでの))を採っています。なお「案内者」には大文字・妙法・船形が記され、左大文字・鳥居形が記されていないことから鴨川(賀茂川)の河原などで洛中の東側から北側を眺めていたのかもしれません。また左大文字・鳥居形は1662年(寛文2年)よりも後に始められたのかもしれません。なお「案内者」には住民が松明を持って鴨川の河川敷に集まり、送り火に合わせて松明に火を点け、空に投げ挙げていることも記されています。
●近衛信尹は1565年(永禄8年)11月23日に太政大臣・近衛前久と波多野惣七の娘の間に生まれました。幼い頃から父とともに地方で過ごし、1577年(天正5年)に元服しました。加冠役の織田信長から一字を与えられ、信基と名乗りました。1580年(天正8年)に内大臣になり、1585年(天正13年)に左大臣になりました。関白・二条昭実と口論(関白相論)になり、豊臣秀吉に関白就任の口実を与えました。1592年(文禄元年)に心の病から左大臣を辞しました。1592年(文禄元年)に豊臣秀吉が朝鮮に出兵する際に自らも朝鮮半島に渡ろうとしたことから後陽成天皇の勅勘を蒙り、薩摩国に配流されました。1596年(慶長元年)に勅許よって京都に戻り、1601年(慶長6年)に左大臣に復帰し、1605年(慶長10年)に念願の関白・氏長者になったが、数か月後に関白を辞しました。近衛信尹は和歌・連歌・書画に長じ、書は本阿弥光悦・松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と言われました。なお近衛信尹は1614年(慶長19年)12月25日に亡くなりました。
●中川喜雲は出生年不詳です。中川喜雲は丹波の郷士・中川仁右衛門重定の子として丹波国桑田郡で生れ、本名が吉左衛門重治と言われています。また芸州(広島)で生れたとも言われています。中川喜雲は山桜子とも号しました。中川喜雲は一旦仕官したが、その後京都で医者の修業をしながら松永貞徳や安原貞室に俳諧を学んだと言われています。俳諧師として「崑山集」・「玉海集」などの貞門俳書に入句しました。また仮名草子作者としても活躍しました。1658年(明暦4年)に名所案内「京童 (きょうわらべ) 」、1659年(万治2年)に名所案内「鎌倉物語(かまくらものがたり)」・笑話集「私可多咄 (しかたばなし) 」、1667年(1667年)に名所案内「京童跡追(きょうわらべあとおい)」を出版しました。近江小室藩藩主で、遠州流茶道の祖・小堀遠州(こぼりえんしゅう)らと交流があったとも言われています。中川喜雲は1705年(宝永2年)10月3日に亡くなったとも言われています。
【中川喜雲の「案内者」と五山送り火 備考】
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