出水七不思議・見どころ(浮かれ猫・・・)
出水七不思議
出水七不思議を紹介しています。出水七不思議には浮かれ猫・日限薬師・時雨松・百叩きの門・寝釈迦・2つの潜り戸・応挙の幽霊などがあります。浮かれ猫は光清寺の弁天堂の南に掲げられている「牡丹に三毛猫」の絵馬のことです。日限薬師(ひぎりやくし)は地福寺の本尊・薬師如来のことです。(出水詳細下記参照)。
【出水七不思議 アクセス・マップ】
【浮かれ猫 出水七不思議】
浮かれ猫は光清寺の弁天堂の南に掲げられている「牡丹に三毛猫」の絵馬のことです。絵馬の猫が遊郭から流れてきた三味線の音につられて抜け出し、女性の姿に化けて踊って大騒ぎになり、住職が法力で絵馬に封じ込めました。その後住職の夢枕に猫の化身として衣冠束帯に威儀を正した武士が現れ、「封じ込められて苦しくてしかたがない。今後世間を騒がすことは決してしないので、許してもらえないか」と嘆願し、住職は猫を哀れに思って法力の封を解いたという伝承が残されています。
(浮かれ猫・豆知識)
●浮かれ猫の絵馬がある光清寺は寺伝によると1669年(寛文9年)に伏見宮貞致親王(さだゆきしんのう)が生母・安藤定子の為に杲山(こうざん)を開山として創建しました。
光清寺(アクセス・見どころ・・・)
【日限薬師 出水七不思議】
日限薬師(ひぎりやくし)は地福寺の本尊・薬師如来のことです。薬師如来には小さな穴が空いた石の穴に5色の紐を通して奉納し、49日間祈願したら耳の病気が治ったという伝承が残されています。なお薬師如来は道空の念持仏で、一定の日を決めて願い事をすると耳の不自由を治すとされ、日限薬師と言われるようになりました。
(日限薬師・豆知識)
●日限薬師がある地福寺は寺伝によると弘仁年間に真言宗の僧・真済(しんぜい)が嵯峨天皇の勅許により、太秦安井に創建したと言われています。その後享保年間に道空が関白・鷹司の北政所の病気平癒に効があったことから現在の場所に移りました。
地福寺(アクセス・見どころ・・・)
【時雨松 出水七不思議】
時雨松(しぐれまつ)はかつて華光寺にあったが、1912年(大正元年)に枯れました。枯れた松の根は梵鐘の下に残され、2代目の松が植えられています。時雨松は関白・豊臣秀吉の手植と言われ、晴れていても枝から時雨のように露が落ちると言われていました。なお華光寺には時雨松以外にも5色の花を咲かしたと言われている五色椿もあったが、時雨松と同様に30年以上前に枯れたそうです。
(時雨松・豆知識)
●時雨松があった華光寺は1582年(天正11年)に妙顕寺12世・日堯(にちぎょう)が関白・豊臣秀吉の援助により、隠居所として創建しました。
華光寺(アクセス・見どころ・・・)
【百叩きの門 出水七不思議】
百叩きの門は観音寺の山門のことです。観音寺の山門は楠の一枚板で、伏見城の牢獄の門が移されたものです。牢獄の門の前では罪人を青竹で100回叩いて釈放するが、罪人の中にはその場で息絶える者もいたことから百叩きの門と恐れられていました。なお観音寺では前を通ると人の泣き声が聞こえるという噂が広まり、住職が調べると門の脇にある小袖門(こそでもん)が風が吹くと自然に開いて呻くような人の声が聞こえることが分かりました。住職は門に取り憑いている罪人の恨みを祓う為、100日食を断ち、念仏を唱え続けると呻くような人の声はしなくなったと言われています。
(百叩きの門・豆知識)
●出水七不思議であるである百叩きの門がある観音寺は1607年(慶長12年)に梅林和尚が一条室町に創建しました。
【寝釈迦 出水七不思議】
寝釈迦は五劫院の山門の脇にある小袖門にあります。小袖門の上にある框(かまち)の木目がまるでお釈迦様が西枕で横たわっているように見えると言われています。
(寝釈迦・豆知識)
●寝釈迦がある五劫院は宝暦年間に僧・喚誉が開基したと言われています。
【2つの潜り戸 出水七不思議】
2つの潜り戸は極楽寺の山門にある小袖門のことです。一般的に山門は小袖門が1つのことが多いが、極楽寺の山門には2つ小袖門があります。その為山門は三つ門とも言われています。なお極楽寺には1587年(天正15年)に関白・豊臣秀吉が行った北野大茶会で使われた名水・金谷水(きんこくすい)もあります。金谷水は飲んで勝負事に挑むと必ず勝つと言われ、勝井戸(かちいど)とも言われました。
(2つの潜り戸・豆知識)
●2つの潜り戸がある極楽寺は浄土宗の寺院です。
【応挙の幽霊 出水七不思議】
応挙の幽霊はかつて玉蔵院にあったが、行方不明になり、その後建仁寺の塔頭・大統院で見つかりました。絵師・円山応挙(まるやまおうきょ)は長崎を旅した時に肺病(結核)を患ってひどく痩せた遊女に出会いました。遊女は京都の三条あたりに住んでいたが、無理やり長崎に連れてこられました。応挙は遊女を不憫に思って、その姿を掛け軸に描きました。ひどく痩せた遊女は幽霊のように見えたことから応挙の幽霊と言われるようになりました。なお応挙はある僧に幽霊について尋ねたところ僧は「霊には行足がない」と答えたことから足を描かない幽霊画を初めて描いたとも言われています。
(応挙の幽霊・豆知識)
●応挙の幽霊があった玉蔵院は1634年(寛永11年)に臨済宗の僧・仏頂が開山ました。