元慶寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

元慶寺の歴史を時代別年表にまとめ

元慶寺の歴史を簡単にまとめています。元慶寺は868年(貞観10年)に六歌仙に数えられた天台宗の僧・遍昭僧正が貞明親王(陽成天皇)の生母・藤原高子の発願により、国家安泰を祈願する定額寺として創建したと言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)

元慶寺(アクセス・歴史・・・)

【華頂山】

●華頂山(かちょうざん)は東山三十六峰に数えられる標高約210メートルの山で、元慶寺の山号になっています。なお華頂山は中国・天台山(てんだいさん)の山頂を表すそうです。

【元慶寺の起源・始まり】

●元慶寺は868年(貞観10年)に六歌仙(ろっかせん)に数えられた天台宗(てんだいしゅう)の僧・遍昭僧正(へんじょうそうじょう)が貞明親王(さだあきらしんのう 第57代・陽成天皇(ようぜいてんのう))の生母・藤原高子(ふじわらのたかいこ)の発願により、国家安泰を祈願する定額寺(じょうがくじ)として創建したと言われています。なお元慶寺は当初、現在の場所よりも少し北側の寺内町に創建され、広さは平安の二十五カ寺として延暦寺(えんりゃくじ)に並ぶほどの規模だったと言われています。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●869年(貞観11年)に第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)の第7皇子・常康親王(つねやすしんのう)が亡くなると離宮・紫野院(むらさきのいん)が遍昭僧正に託され、官寺・雲林院(うんりんいん)になり、元慶寺の別院になりました。ただ雲林院は鎌倉時代に荒廃し、1324年(正中元年)に大徳寺(だいとくじ)の塔頭(たちゅう)になったと言われています。
●877年(元慶元年)に陽成天皇の勅願寺(ちょくがんじ)になり、年号「元慶」から寺号が元慶寺(がんぎょうじ)に改めたと言われています。その後元慶寺(がんけいじ)と言われるようになりました。
●957年(天徳元年)に僧房などが焼失したと言われています。
●986年(寛和2年)に第65代・花山天皇(かざんてんのう)が元慶寺で出家しました。花山天皇は太政大臣・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)、次男・藤原道兼(ふじわらのみちかね)父子の策略によって出家し、藤原兼家の外孫・懐仁親王(やすひとしんのう)が第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)に即位する寛和の変(かんなのへん)が起こりました。元慶寺は花山法皇の宸影を安置することから花山寺(かさんじ)とも言われ、歴史物語「大鏡(おおかがみ)・平安時代末期成立」の中に「花山寺」と記されています。元慶寺は花山法皇ゆかりの寺として、西国三十三所の番外札所になっています。
花山天皇は968年(安和元年)に第63代・冷泉天皇(れいぜいてんのう)と藤原懐子(ふじわらのかいし)の第1皇子として生まれました。969年(安和2年)に叔父・守平親王(第64代・円融天皇(えんゆうてんのう))とともに皇太子になり、984年(永観2年)に円融天皇が譲位すると17歳で天皇に即位しました。その後藤原頼忠(ふじわらのよりただ)・藤原義懐(ふじわらのよしちか)・藤原兼家による三つ巴の勢力争いが起こったり、寵愛していた女御・藤原し子(ふじわらのしし)が急死したりした為、986年(寛和2年)に19歳で宮中を出て剃髪し、元慶寺に出家しました。
●1013年年(長和2年)に「御堂関白記(みどうかんぱくき)」によるとは太政大臣・藤原道長(ふじわらのみちなが)が寺地を定めたと言われています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

●1467年(応仁元年)に応仁の乱(おうにんのらん)が起こり、伽藍が焼失して境内が縮小しました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●江戸時代中期頃に境内の一部だった現在の場所に妙厳(みょうごん)・亮雄恵宅(りょうゆうけいたく)が妙法院宮尭恭法親王(みょうほういんのみやぎょうきょうほうしんのう)・真仁法親王(しんにんほうしんのう)の遺志に従って再興したと言われています。
●安永年間(1772年~1781年)に現在の本堂が再建されました。また江戸時代中期に庫裡・護摩堂・門なども建立されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●太平洋戦争後に3代目の梵鐘が鋳造されました。梵鐘は平安時代に1代目、応仁の乱後に2代目が鋳造されたと言われています。
●平成に護摩堂が解体・修復され、令和に本堂・庫裡の瓦が修復されました。

【元慶寺の開山である遍昭僧正】

遍昭僧正は816年(弘仁7年)に大納言・良岑安世の八男・良岑宗貞として生まれました。第50代・桓武天皇の孫でした。第54代・仁明天皇の蔵人に任じられ、845年(承和12年)に従五位下・左兵衛佐に叙任され、846年(承和13年)に左近衛少将兼備前介に任じられ、849年(嘉祥2年)に蔵人頭になりました。850年(嘉祥3年)に従五位上に昇叙したが、同年3月に仁明天皇が崩御すると出家しました。第3代天台座主である慈覚大師・円仁、天台寺門宗(寺門派)の宗祖である智証大師・円珍に師事し、868年(貞観10年)に元慶寺を創建し、869年(貞観11年)に別院・雲林院の別当を兼任しました。885年(仁和元年)に僧正になって花山僧正と言われるようになりました。同年12月に第58代・光孝天皇の主催で内裏の仁寿殿で70歳の賀が行われました。遍昭僧正は六歌仙に数えられ、「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」が小倉百人一首に入っています。また「古今集」にも入集し、家集に「遍昭集」があります。なお遍昭僧正は890年(寛平2年)2月12日に亡くなりました。

【元慶寺の歴史 備考】
*参考・・・元慶寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia

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