宝泉院の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

宝泉院の歴史を時代別年表にまとめ
宝泉院の歴史を簡単にまとめています。宝泉院は嘉禎年間(1235年~1238年)に「声明目録」を記し、声明の大家として知られる宗快法印が勝林院の塔頭として創建しました。宝泉院は当初、了性坊と言われていました。(時代別年表・重要人物下記参照)
【勝林院(しょうりんいん)】
●勝林院は835年(承和2年)に第3代天台座主(てんだいざす)である慈覚大師(じかくだいし)・円仁(えんにん)が天台声明(てんだいしょうみょう)の根本道場として比叡山(ひえいざん)に創建したとも言われています。慈覚大師・円仁は経典などに独特の旋律(せんりつ)を付けて唱える声明を唐(中国)で学び、この地に伝えたと言われています。また勝林院は1013年(長和2年)に慈覚大師・円仁の9代目弟子で、天台宗の僧・寂源(じゃくげん)が国家安穏の為、法儀声明念仏三昧(ほうぎしょうみょうねんぶつざんまい・魚山流声明)の根本道場として創建したとも言われています。寂源は声明も復興したと言われています。
【宝泉院の起源・始まり】
●宝泉院は嘉禎年間(1235年~1238年)に「魚山目録(ぎょざんもくろく・声明目録(しょうみょうもくろく))」を記し、声明の大家として知られる宗快法印(しゅうかいほういん)が勝林院(しょうりんいん)の塔頭(たっちゅう)として創建したと言われています。当初、了性坊と言われました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
●鎌倉時代後期頃に樹齢約700年の五葉の松が植えられたと言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
●室町時代中期頃に了性坊が廃絶したと言われています。了性坊は文正年間(1466年~1467年)までの記録が残されているが、以降の記録がありません。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の歴史・出来事】
●1502年(文亀2年)に書院(本堂)が再建されました。
●元亀年間(1570年~1573年)に「両院僧坊歴代記」によると幸淵が了性坊(宝泉院)を再興したと言われています。宝泉坊と称するようになりました。なお大原には勝林院を中心とする下院と来迎院(らいごういん)を中心とする上院があり、下院・上院の両院は「魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)」と総称されるようになりました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
●1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)の前哨戦である伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)で、江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の家臣・鳥居元忠(とりいもとただ)ら数百名が石田三成(いしだみつなり)に破れて自刃しました。鳥居元忠らの供養の為に伏見城の床板が宝泉院に移され、書院の天井が血天井になったと言われています。
●1716年(正徳6年)に寺号が宝泉院に改められたと言われています。
●江戸時代に勝林院には宝泉院(法泉坊)・実光院(実光坊)・理覚坊・普暁坊の4つの僧房があったが、明治維新後に宝泉院・実光院だけが残されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
●1905年(明治38年)に茶室「日新庵」が建てられ、2013年(平成25年)に現在の場所に移されました。
●1991年(平成3年)に樹齢約700年で、樹高約11メートル・枝張り南北約11.5メートル・東西約14メートルの五葉の松が京都市の天然記念物に登録されました。
●2005年(平成17年)に園冶(えんや)が枯山水庭園「宝楽園」を作庭しました。
【宝泉院の開山である宗快法印】
宗快法印は詳細不明です。宗快法印は鎌倉時代の僧で、声明を再興し、「魚山目録」一巻に融通念仏(ゆうずうねんぶつ)の祖である聖応大師(しょうおうだいし)・良忍(りょうにん)の遺韻を収めました。
【宝泉院の歴史 備考】
*参考・・・宝泉院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
















